神様に聞け、ということ

テキトーなブコメをしてしまったのではないかと、今一度はてこはだいたい家にいるを読み返してみた。
コメント残そうか迷ったが、そこまでの内容なのかという逡巡があり、また返答いただいても、議論が深まるのかどうかも分からない。だから、ただ目を通していただければ、という気持ちで以下記す。


まず、「ファンタジー」という言葉が、やや曖昧で、それが上記ブログの不幸な結果につながっている。多くの人は、それを表現物として解釈してしまったきらいがある。夢物語は夢物語でも、おそらくもちのすけさんが当初言及したときの「ファンタジー」は、表出以前のもので表現物としては想定されておらず、近い言葉で言えば「妄想」なのだろう。
という前提にたって読み返してみると、少なくともはてこさんの苛立ちというか不安というか危惧というか、はよく分かる。
多分、ここに書かれているエピソードが重要なのだ。
つまり年上の内気な独身男性から雰囲気のあるお店に誘われ、お食事をしている最中に「あのさあ、こんなこと聞くのアレなんだけど、女性ってレイプ願望あるっていうよね、あれ何でなの?」と聞くような事態が起こってしまっていることが。
これが「内気な」男性だからまだ深刻でないようにみえるが、逆に言えば、内気な男性がそういう事を言えるくらいに、いまの言説空間には、"女性の多くはレイプ願望を抱いている"というような、本来憶測であっても口にできないようなものが一個の言説として染み渡ってしまっている。
染み渡っているという事は、それは、内気な男性のみならず、どこの誰とも分からない、場合によってはすぐ隣に住んでいるかもしれない粗暴な輩にも恐らくは行き渡っている。
この事態にどう対応したら良いものか、という危惧から、恐らくもちのすけさんの言葉が出てきていると理解する。


「レイプ願望」という言葉だけが、あまり考察のないまま一人歩きしている。そんな現状では、同じ「レイプ」という言葉で、粗暴な輩の「願望」と、女性の「願望」が一致してしまう。どこかでそれらを切り離せないものか・・・・・・。


そこで、持ち出されたのが「被害者がいないから、ごっちゃにしてはならない」なのだが、ここでもはてこさんは大分、しかし曖昧ゆえに無理もない、誤解をされてしまった。しかも二つの点において。


一つ目について言うと、正確を期すれば、されたいファンタジーにも被害者はいるのだ。
このへんは大野さんの言うのが正しく、「願望」(=妄想、ファンタジー)の内容そのものとしては、外形的にみれば、少なからぬ部分で、「したい」も「されたい」も一致している筈なのだから。たとえば、その願望が表出した表現物(レディコミ)などのなかに、一方的に女性がモノのように扱われ蹂躙されるようなものが全く無かった訳でもないだろう。
もうひとつ言っておけば、少なからぬ部分で、「したい」も「されたい」も一致しているからこそ、大野さんが引いた大澤真幸とかジジェクの議論が成り立つのだろう。


「されたいファンタジーにも被害者はいる、しかし、同時にいないのだ
余計に人を惑わすような言い方だが、はてこさんのブログで、上記のような言い方がなされていたらどうだったのだろうと夢想する。
したいファンタジーにも、されたいファンタジーにも被害者はいる。しかし、ファンタジーを抱くものがファンタジーのなかで取る位置が、その両者では決定的に違っている。
されたいファンタジーの被害者は自分自身であり、したいファンタジーの被害者はあくまで他人である、ということ。
被害者が自分自身であれば、たとえば自殺が殺人罪にならず被害者もいない如く、害的行為は自分自身のなかに内包されている。つまりコンテンツの中身の外形としては被害者はいるが、実質はいないのだ、と。
あるいは、両者の違いをこのように言い立ててる事も可能かもしれない。現実との距離が大きく違っているのだ、と。
願望を抱くときそこでは欲望する自分が肯定されているのだから、自分を否定するようなものとは両立しない。あるいは隔たりが大きい。つまり被害者が自分自身であるような願望と、自分自身を害するという現実とは、同時には決して両立しえない。一方、したいファンタジーの場合においては、ごくごく一部のならずものにおいてのみと注釈せねばならないだろうが、願望と現実がまさしく両立しかねない。


だからこそ、両者を「ごっちゃにしてはならない」という事になるのだが、これもブログの読者にただ「違う」と解釈されてしまった部分がある。これが二つ目の曖昧な点。
より正確に言えば「内容は同じものかもしれないが、しかし違うのだ。だから区別しなければならない」ではないか。ややこしいが、しかし、簡潔にかつ正しく言うならこう言うしかないのではないか。そして、同じ内容の妄想を違う内容として捉えよというのは無理にしても、同じ内容の妄想を、妄想を抱く主体によって、区別して扱うことは不可能ではない。


・・・・・・・


したいファンタジー、されたいファンタジー。両者の「願望」の内容が一致したとしても、一致しているのは内容だけでしかなく、肝心の「願望」する主体を考慮せずに、同じものとしてそれぞれ「願望」した主体にたいして区別せずに当てはめてしまうのは、乱暴である。
と結論付けると、なんか当たり前のように聞こえてしまうし、悪く言えば対処療法的なものでしかない。はてこさんも何のために長々エピソードを書いたか、あるいは、「レイプ願望」という言葉を誰かまた男に今後も口にされ、その度に手紙を書かねばならないのか、ということだ。


もしあのブログで書かれていたことを、より身近な我々の問題として考えるなら、「レイプ願望て実際どうなの」と男から言われてしまうという現実と、自らの妄想を口にしてしまう事をわりと簡単に許してしまいがちな我々の意識について、もう少し考えた方がいいのではないか。
そのような意識は、そのような現実を予想しているのか。また、予想していなかったときに生じるであろう落差に出会ってない、もしくは落差に鈍感な人によって主に妄想が語られている、そういう事は全くないのか。


以前大野さんが引用していらした、ジジェクの文章を私も興味深く読んだのだが、密かに強姦を妄想していた女性が実際に強姦にあったときの落差には、遥かに遥かに及ばないにしても、似た構造のものとして、被虐の妄想を容易に口にしてしまう人がいるとするなら、それが望まない人から、加虐の側から口にされてしまうという現実があったときに生じるであろう落差を、その人はいま少し感じても良いのかもしれない。
妄想を語ることは、妄想を語られることによって裏切られたりはしないのか


むろん、その落差を充分体験したうえでそれでも妄想を語るんだ、という人もいるだろうし、この対立はそう簡単には解消するとも思えない。
それでもそれを承知で私は、以前からそうであるように、少なくともネット上、なかんずく匿名においては、また性的なことに関してはとくに、欲望、願望、妄想の表明に関しては、「神様に聞いて」という立場に立ちたい。


おわりです。


※追記
深夜遅くなって再訪してみたら、どうやらTBを承認いただけなかったようだ。
自分が書いた事を再読してみたら、相手の事をあーだこうだと言えないくらいに何が言いたいのか分かりづらい所もあって成る程こりゃ無理もないかなという気もしたが、何かのトラブルでTBが飛んでいなかったとしたらせっかく書いたのが流石に悲しくなるので、文章を若干手直ししたうえで、念のためここでidコールさせて頂くことにする。id:kutabirehateko
迷惑だったかもしれないが、これ以上はもう何もしないし、これも承認されなくても無論全く構わない。