派閥復活論の見えてなさについて

やれ派閥政治の復活だの、やっぱ派閥は根強いだの意見がいまだ多いが、おそらくそれは自民党の新4役だか3役だかの顔ぶれをみただけの表層的な感想に過ぎないんじゃないか、と思っている。しかも、昔の自民党の、まるで党内党じゃないかともいえるくらいだった派閥政治を知らない(か忘れている)。
今回の選挙〜組閣を通じて見えてきたのは、派閥というものが機能しなくなったな、という事だろう。
総裁選挙の推薦人に関しては、足りない弱小派閥の立候補者に、他の派閥が貸し出すみたいな事も昔は行われていたように記憶しているが、今回の麻生氏に関しては、派閥の長が誰に決めようが麻生を推すというひとが結構いたわけで。そのことは結果の票数にもしっかり現れていて、派閥単位で動くかのようでじつはあまり機能しなかった。
しかも総裁選後、誰が麻生氏に入れたんだ、なんて追及がそれぞれの福田支持派閥内で行われたというハナシも聞かない。これが昔だったら、追及も行われ投票した人も叱責を受けただろうし、選挙前にあきらかに麻生氏のために動いた人々は下手すりゃ除名にちかい処分だったのではないか。


また新4役の顔ぶれに関しても、派閥の長を選んだから派閥復活とはなんとも短絡だろう。
これは、けっきょく選挙までの人事だから本格的に検討しなかった、という面がいちばん大きいのだろうが、手っ取り早く派閥の長を選んだ背景には、人事はそれぞれの派閥の長が決めてリストを出し新総裁はそこから選ぶという、いわゆる派閥政治らしいかつての方法が廃れてきているという事も少しはあるのではないか。
また、その衰退自体の背景としては、派閥の長とされる人物の自分の派閥の把握力の低下もあるのではないか。自分たちのグループから誰を推薦するかということに関して、ようするにすんなり遂行できないという。任命する方(総裁)としては、そんな状況がわかってるから、あえてこの際派閥の長を選んでおけ、みたいな雰囲気がするのだ。


昔の自民党といえば、なんとなく護憲でどちらかといえばリベラルな旧池田派とか、ナショナルな中曽根派とか派閥の違いは政策の違いでもあったのだが、いまではそういう面もほとんど感じられない。
たんなる人的なつながりで形成されたグループみたいな感じ。
あの清和会の福田がハト派的にみられていて(内実はともかく)、宏池会の流れにいた麻生がタカ派っていうんだから、ちょっとした笑い話でもある。
こんな状況で、派閥の復活だといって青筋立てたり、派閥は根強いなと嘆いたりするならば、これもまたちょっと笑えなくもない。

はてブに関して

はてブで否定的なコメントがならんで、それで直情的になってしまった人を、ときどき見かける。
学校や職場でのイジメとちがってネットにはやらないという逃げ場がある。そんなにイヤならブログなんてやめてしまえば良い、などといいたくなるところなのだが。それは良くないかもしれない。家庭や学校に居場所がなく、ネットだけが居場所、という人もいるかもしれないから。
ただ正直ネットだけが居場所ではない人間の感想を書かせてもらうならば、祭りだの炎上だのという現象にくらべれば、はてブなんて、なんとも害のないのどかな光景ではないか、という事になる。しかもIDあたり一回だけ100文字しかコメントできないのだから、何回もコメントできたりするブログ本体やなんども書き込めたりする掲示板などよりサイバーカスケードも加速しないだろう。とも言ってみたくなる。


とりあえず、アメリカの哲学系の学者ポパーの言葉が思い浮かぶ(気になった人は"ポパー""職業倫理"であちこち検索してほしい)。
かいつまんでいえば、私たちは他者を必要とするのだ。なぜなら自分の誤りにもっともよく気付かされてくれる存在は他者なのだから。ゆえにその他者が批判的であればこそ、彼らに感謝の念をもって応じなければならない。


かいつまみすぎてポパーの熱意が伝わらない感じではあるが・・・。