異議申し立ての意義②

http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuoのコメントに注目してきたが、池田氏は4/17の早い段階(4/16深夜)で、すでに道義的責任について認める立場のようである。以下そのコメント(強調は引用者、他の引用もすべて)

私の結論 (池田信夫) 2007-04-17 00:39:37

このスレも、270を超えました。これは当ブログとしては、「アマチュア無線」と「国家の品格」を超える新記録ですが、小倉さんの論理的な議論のおかげで、他のスレのような消耗戦にはならず、妥当なコンセンサスが見えてきたような気がします。要するに、焦点は日本軍の監督責任だということです。

これは実際には、吉見氏も永井氏も秦氏も合意していることです。違いは、前者が「監督責任は重く、暴行・監禁の責任は軍中央にある」とするのに対し、後者が「犯罪的な行為はあったが、軍に法的責任はない」とする点です。秦氏も道義的責任は認めており、アジア女性基金にも協力しています。このへんの曖昧な「日本的責任」の取り方が妥当なところかなという気もします。
(後略)

いぜんに"60年以上前の兵士の行為について、現在の政府の道義的責任を問うことに何の意味があるのでしょうか。"と書いていた(2007-04-14 16:08:19)池田氏からすれば、前進というか後退というか、ともかく歓迎すべき事のように思われる。


今現在池田氏当該エントリでのコメントは、例によって命令をさらに文書に限定するかどうかのやりとりがあって、米議会での決議案の是非に話題は移っているようである。


日本としては、すでに河野談話を継承すると対外的に宣言しているのだから、例の決議案で修正できることはかなり限られていると思われる。
だとすれば、その限られた表現上の問題や、軍の関与の程度の問題を修正するために行動を起こすとして、その行動の結果修正できることよりも、その行動自体の政治的意味のほうが大きくなってしまって、あまり日本にとって良い事はなさそうな気はするのだが、どうだろうか。


この米議会の動きについて、まず感じるのは、その昔、慰安婦問題を小さくもらった国(アメリカ)の議会に、今度はその問題を大きく扱われたからといって、あまり文句は言えないんだろうなあ、という事だ。
多少皮肉っぽく言うならば、そういう事にならないだろうか。
東京裁判という政治(アメリカの動き)に左右された裁判での慰安婦問題の扱いの少なさを是とするなら、今のアメリカの動きが逆になってしまったからといって、あれこれ言えるものでもないだろう。昔にアメリカの勝手を容認したのだから、今も容認せざるを得ない。


東京裁判という結果があろうと、その後(たとえ徐々にでも構わないから)、日本を日本自身が裁くような動きでもあれば違ったのではないか、と思う。
私には、日本は、米議会での決議案に反対するだけの資格が充分ある、と見なされるだけの行動をしてこなかったように映る。