ある夢想について

この記事についてメモ
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/071006/stt0710062247005-n1.htm


例の、沖縄での集会の数字が過大だ、と右の人たちが攻撃してる問題である。
これに対する反応では、主催者発表なんだから問題ないだろう、というのが主だったものなのだけれども、じつは私には、そう簡単に主催者だからOKと肯定したくない気持ちがある。


もちろん、人数が何人だったかなんて、そんな事は今回の件では突っ込むべきところではない。
だけど、突っ込むべき所ではないと言っても分からない人、左翼的な事であれば何であれ文句を言いたい人はいるわけで、そういう人に突っ込み所を与えてしまった感は否めない。


運動を盛り上げるために「空前の盛り上がり」だとか、そういう大げさな表現を使っても、主観的な事柄ではあるし、仕方ないと思う。
ただ人数というのは、どちらかといえば客観的に確定しやすい要素ではないか。客観的に確定しやすいということは、つまり、正確な事をいっておけば、反対者は何も返せなくなるだろうという事なのだ。だからせめて人数ぐらいは、より正確にカウントする労力を払い、発表してしかるべきではなかろうか。
まして、この引用記事のなかでは、それより以前の出来事として、警察が発表した数字に文句がつけられたことがあったというが、主催者発表に文句をつけられたくなければ、警察の発表だってそのままにしておくべきだろう。


たしかに、ときに正確な発表をすることが参加者の意気を殺いでしまうこともあるかもしれない。しかし、多少の非情なものであれ、参加者により正確な認識をもってもらった方が良いのではないか。参加する者として、正確だけれども惨めな事実と、威勢のいい気持ちの良いウソとどちらを教えられたいかというのは、一概にはいえないが私は前者であるつもりだ。


ただ、水増した発表をすることで運動が盛り上がり、結果として良い結果になった事だって、今までいくらでもあったかもしれないと考えると、私のなかで少し迷いも生じる。
だから、それほど強い調子にはなれない。
ただちょっと希望するのである。学生時代にたとえば新左翼系団体の「勝利宣言」なんかをイヤになるほど目にした者としては。なるべくその手の数字に政治的な意図をすべりこませない団体がもっと多くならないかな、と。


水増しした数字で「勝つ」というのも否定できない方策だ。それは時として多大な成果たりうる。
ただ運動の当初からそういう事を許容するのであれば、「勝利後」も便宜的な都合の良い発表をすることを自らに許容しやすくなるかもしれない。また、政治的敵対勢力の便宜的な数字も当然許容しなければならなくなる。
ここで負ければ後がないという状況でもないかぎり、負けても負けても正確な数字(客観的な発表)を続けたらどうか、と思ったりする。そしていつの日か、そういう運動・団体が徐々に支持を受け勝利するとしたら・・・。
そうしたら、政治のなかにおける為政者と民衆との関係も少し変わったりするのではなかろうか。たとえば、国家は何かを隠すのが当たり前、みたいな世界が変わる端緒になりはしないか。


などと夢想するのだが、あるいは、そこまで人間というのは変われないものなのかもしれない。