文書と命令と組織性について

白旗 (池田信夫)

2007-04-18 11:12:35

私の意見の根拠は、秦氏の調査です。彼によれば、日本軍は些細なことまで軍司令部で決めて、師団・旅団・大隊・・・と文書で下ろしたので、同じ軍令のコピーが大量に残っているのが普通です。特に慰安婦を強制的に徴用したとすれば、数千人の女性を動員する計画にともなう膨大な書類があったはずです。しかし、そういう文書は見つかっていない。

「どのレベルの者からの命令か」などというのも、軍という組織を知らない人の話です。女性を強制的に慰安婦にせよなどという違法な命令を、軍司令部の許可なしに(たとえば)大隊長が出したりしたら、軍法会議で営倉入りになるでしょう。実際、どのレベルだろうと1枚もそういう命令は残っていないのだから、レベルを特定する意味なんかありません。

(後略)※強調は引用者

皮肉にもここで池田氏自身が、「軍による組織的な強制を示す文書」が見つかり難い訳を説明してくれている。つまり違法性の高いような命令を果たして文書などで残すかどうか、という事である。池田氏は別の箇所で文書がないのが致命的である旨を言っているが、ちょっとナンセンスの気味がある。
犯罪を命令するような文書などは無いのが当然なのだから、命令があったのかなかったかを示すためには、そのような形式的な事の有無で足りるはずもない、というのが普通の考え方ではないだろうか。
口頭による命令はあったのか、とか、他の合法的な命令文書と現場との整合性とか、違法性のある行為が下部組織で生じていることをはっきり知っていたかまた追認していたか、など、より実質的な調査をもって、命令があったかどうかは判断されるべきではなかろうか。
この文書に拘るという姿勢は次のコメントで顕著なのだが、これは分岐点として重要なので引用しておく。

ふたたび小倉さんへ (池田信夫)

2007-04-18 08:39:41

<これに対して、池田先生からは、「軍の命令による組織的な強制」があったといえるためにはこのレベル以上の者からの命令に基づく強制があったことが必要であるとのお話はいただいておりません>

とおっしゃいますが、私は直前のコメントで

<方面軍司令部の文書でもいいから、「婦女子を強制的に慰安婦にせよ」という軍の命令があるなら出してみてくださいよ>

と書きました。小倉さんが答えられないのは当然で、どんなレベルだろうと、そういう文書は存在していないのです。だから「軍の命令による強制はなかった」と結論するのは、当たり前でしょう。違いますか。

つまり小倉氏の設問を展開することにより、どのような状況があれば軍による組織的な強制といえるのか、という実質性への議論になったと思われるのだが、ここで池田氏が文書に話を限定し、そちらへ分岐していったのは非常に残念であった。


ここでその実質性を考慮した私見を言わせてもらえば、軍による組織的な強制がなかった、と判断するにはまだ足りない、と思う。
まず第一に、Apemanさんのご教示などからより詳しく知ったのだが、日本軍の性欲処理施設への関与度は、他国に比べ非常に高いという事。設置を決めた母体が日本軍であること、輸送、労働条件の策定、監視など様々なサポートを組織的に行っていたことなどである。であればこそ、そこにおける逸脱行為についても組織的に対応すべきであったと思われるのである。
たとえば違法な強制があったとして、それを知っていながら厳格な対処もしないという事であれば、組織として違法な行為を追認したのだから、組織的な強制と言われてもしかたがないのではないか。(また、違法な強制を上層部が知らなくても、当然知りうるべき状況にあって知らなかったという事になれば、過失としてやはり組織的であったというそしりは逃れられない気がする。)
またこれは犯罪性を問うのは難しいかもしれないが、そのような違法な強制が一部の特殊な事例として片付けられないほど生じていたり(実際生じている気がするが)、あるいは一部の特殊な例しか生じていなくとも違法な強制が生じる事が予見できそれを防げるような組織構造にしていなかった場合などにも、組織的であったかどうかという事は問われるのではないか。
それを言えば切りがないのかもしれないが、日本軍などは侵略地域によっては異常な物資不足であり、現地調達という名の民間施設からの略奪行為など常態化していたのであるから、そのような略奪を是とするような組織であった事じたいも問われるべきではないか?つまり南方で生じていた一部の慰安婦への強制行為は、きわめて特殊な例ではなく、日本軍の組織体質から生じておかしくない事例だったのではないか。現地の民間人の生活の軽視というのが一般化していたのではないか。

(念のため、こういう日本軍の特質が日本人の民族的特質(などというものがあるとして)とは、まず関係なかろうという事は言っておかねばならないだろう。また、このような日本軍のありかたを批判するのは、決して日本軍(および日本)だけを責めるものでもない事も。)


またこれらの組織性に関する責任が、どのレベルまで問われるべきか、というのも文書云々よりも、実質的な部分(他の命令の系統やその実施状況等の整合性など)によって、それぞれ判断していくしかないだろう。


そういうふうに考えてくると、以前に最低限とした道義的責任は、やはり最低限でしかない、と思う。
しかも、ともすればそれは共同体性、身内を守ることにもなりかねないのだから、そこに留まるのはどうかとも思う。
つまり、一部の強制行為、また多くの広義の強制行為について、道義的責任を負うということが、場合によっては、ただ上層部にいたというだけの理由で責任を負うというふうに受取られかねない。負わされた者は下手をすれば"ただトップにいたというだけで責任取らされるだなんてあの人も運がないねえ"という話で救われかねないのだ。そして実質的にその共同体内部で倫理的な責めを受けるものはいなくなってしまう。
この共同体性云々に関しては、慰安婦問題の議論に関しては切迫した問題ではないだろうが、責任という事の持っていき方によっては、そういう事も気になってしまうのだ。