「匿名主義者」という言葉について

たんに匿名であることが所属に対する迷惑の回避策に過ぎないのだとしたら、その者が自分は匿名主義者であるなどと名乗ることはないだろう。たんなる回避策を主たる義であるとは、たいていの場合言わないからである。そこに積極的なものがなければおかしい。
むろん積極的なものがあっていいのである。問題はそれを認めないことなのだ。たとえば匿名だからといって自分は醜い事は書かないなどと言ってしまうこと。
そこには、自分はまずある論を書いてそれを発表する段階でいろいろ配慮のもと匿名で発表しているのだ、などと転倒したごまかしがある。自分が匿名主義であるなどと言う人は、最初から匿名を前提としてそれを絶対条件として書いているに違いないのだ。作家でもペンネームを使い分けていろいろ書いている人は、まずネームがあって内容が続く。


「匿名」「実名」の違いは、何かを投票によって決める際の「記名投票」「無記名投票」に似ているところがある。
国会などでは記名投票が原則である。「起立」や、正確に票を定めるときでも誰がどう投票したかはすべて分かるようになっている。これらは、たんにその人の公的な活動の延長に過ぎない。だからネットでも「実名」の(その人にとっての)メリットなどといわれるとその人にとっては訳が分からないだろう。その人はたんに延長をしているだけなのだから。たんに媒体が電子的であるというに過ぎないのだろう。
一方われわれが参加する選挙などでは無記名投票が原則。これらは無記名が前提となって絶対条件となることで投票が可能となっている。つまりそのほうがより正直に意思を表示できるという事だ。そしてここでは、その人がほんとうに良心にしたがって熟慮した投票をしたか、テキトーに気分で投票をしたか、邪な意図をもって嫌がらせ的に投票したか、は知りようがない。これは、ネットで粘着と「匿名主義者」を区別し様がないのと一緒である。


したがって匿名を主義だなどと言い、とりわけ匿名を使用しない人を難じる人は、粘着行為も、自らが匿名を前提にときに醜いことを書いてしまうことも含めて擁護すべきなのだ。匿名を使用しない人を難じるという事は、匿名ならではの空間、匿名の意義を守っているのだから。
無記名投票は無記名投票ならではの意義があるのだからそれでいいではないか。テキトーな事を書く人を全て否定するなら匿名ならではの良さは殆どなくなってしまうだろう。自分だけは悪いことをしないみたいな余計なごまかしはしない事。
匿名を本当に回避策に過ぎないと思っている人は、匿名を使用しない人を難じない。自分は自分の事情でそうしているだけであり、相手は相手の事情でそうしているというだけだからである。
ただし、そういう人間もたまたま発表時に匿名にしているだけで内容を変えていないとは完全には言い切れないだろう。匿名であることによってここまで書けているというのを避けるのはなかなか難しい。となればやはり実名でやっている人には一目置かざるを得ないし、自分の言論の幾ばくかはそういう人より下に見られても仕方ないかなと思うのである。