匿名のデメリット

匿名のデメリットといえば、誹謗中傷発言やそれに伴うもの(多数対個人というカスケード現象の発生、トレーサビリティの低さetc)ばかりではない、と思う。
もっとも今から私が書きたいデメリットは、それをもって匿名制を廃止すべき程のものでもない。(逆にいえば、私がこれから書くことの裏返しも匿名制を維持するほどの理由ではないと思うのだが、これは後述するかも。)


そのデメリットとは、匿名により政治的な発言が比較的自由にできること、である。
まあ、人によってはこれはメリットという事になるのかもしれない。私はいぜん無記名投票の例を出した。なぜ自由主義体制においては、無記名投票でなきゃならないのか。政治的な自由は、その本心こそが尊重されなければならないからだ。一見自由に論議しているようにみえて全会一致では、セレモニーでしかないのである。それは意思を強いられていると見られざるをえない。
という事からすれば、当然、政治的に本心からの意見を表明できる匿名制は擁護されなければならない、となる。
だが、無記名の投票とWEBでの自由な政治的意見とを同じように評価できるかという点において、私は躊躇する。別に否定するわけではない。躊躇するというだけだ。(要するに小心だ。)


一番の問題はインターネットは反知性主義を加速させる面がある事だ。フラットに見えるからだ。学生もサラリーマンもフリーターも大学教授も例えばはてな日記においては一ユーザーでしかない。(こんな人も書いてます、で優遇されている有名人はいるけどね)
たんに電子技術的にそう見えるにすぎないのに、これにより、どんな者も大学教授と平等に渡り合えるのだ、という錯覚をもたらす。傍からみれば、アカデミスムと渡り合えるようなブロガーなど極々限られた数しかいないと思うのだが、恐らく本人の意識は違う。
こういう事態(反知性主義の台頭)が結実しているのが、今まで一番結実してきたのが、レイシズムやリヴィジョニズムであり、少し前の靖国参拝の盛り上がりであることが、私の躊躇へつながっている。
選挙において同じ一票である事と、公的な場において政治的意見がどれも同じ重さを持つという事は、前者はべきだが後者までべきとすべきだろうか。前者のべきさえ保証されていれば充分ではないか、と、ときに反知性主義の人の「意見」を見ると思ったりする。ごくたまに現実の権威にたいするためには匿名の者が集団で対抗する必要があるのだなんて意見を目にすることがあって、文革だなあと素直に驚く。
インターネットは現実の秩序の反映であってはならない格別の理由、趣味的・娯楽的でない理由などあるんだろうか。