これもまた反知性主義か

この事件に関しては伝えられるアウトラインがあまりに単純な気がするという事もあって、かえって何かすぐ語るのも軽率な気がして、いつまでたっても「そろそろ語る」なんて気には、さらさらならない。
だから、これについてもできるだけ手短に。
(私はこの記事の題名が非常に嫌なので自ブログに表示すらさせたくないので「これ」にする)


まず、人が何人も死んでいるのだ。それについて書くのにあたって、「言葉」に無頓着すぎる。ほんとうに悼む気持ちがあるのか疑いたくなってしまう。
犯罪が発生した背景を探るのが「本質的に意味がない」とはどういう事なのか?
本質的に意味がないのならば、「学問的な研究としては意味があるかもしれない」などという事はありえない。
表層から本質を探り議論するのが学問だろう。学問的に意味があるのならば、本質的に意味があるのだ
学問的には意味があるかもなどと書き足したなら、きちんと推敲して「本質的に意味がない」なんて意味のない記述は訂正されるべきだ。


しかし私はこれが推敲不足からのみ来ているのではない、とも思っている。こういう記述を平然とできるという事は、学問なんて本質とは関係ないとまでは言い切らないけれども、それに近い心性を抱いているのではないか。つまり学問というのは、一般人には理解できないような専門家が専門知を繰り広げる場であって、学問をやる人はわれわれ一般人の生活の肝要な部分とは関係ない事やってる、みたいなイメージ。
その関係ないと同時に、そこに何かしら敬意的なものが両立していればそれほど問題はないのだろう。ま難しい事は分かんないけど何とか上手くやってください、という意識であれば。それは、今回の事件でいえば、一般人的には被害者の背景を知り悲しんだり同情したり、加害者の背景を知り憤慨したりであって、ナイフの規制やネットの書き込みでどれだけ防げるかとか、日本は平気かとか若者がキレルかという問題は、社会心理学者や法律学者、行政の専門家などの意見をまず聞いてみて、という事になるだろう。


しかしこの記事では、一方で、学問的には意味がある(けど我々には関係ない)などと言いつつ、日本は大丈夫かなどという最も大事な、ほんらい全ての学問を集結させても答えが容易でないような事について、容易に答えているのだ。
これはべつにわかり易い矛盾ではない。
この光景を解釈するなら、おそらくここで表出しているのは、学問を辺境に遠ざけ、彼らから本質のみを奪い本質は我にこそあるのだと言わんばかりの行為であって、反知性主義的であるとしても遠からずではないかと考える。
反知性主義には、知性に対して感情などを対置するものだけでなく、専門的で細分化されすぎた(ように見える)アカデミズムに対して、総合的でわかり易い知性を対置するものもあるのかもしれない。