ほんとうに曖昧なものは何か

久しぶりにみたらこんなエントリが上がっていた。


いきなり骨子と謳って何項目か挙げられているが、solar氏が水村氏について書いた最初のエントリは結びの文章(「そして願わくば、このようなナショナリズムと悲観と無知と傲慢さ*7によって彩られた本は否定され、「近代文学」の達成をふまえつつ、現在の日本語で優れた小説を書いている作家たちの「孤独」こそが、広く知られるべきなのだ。」からしてそうだし、途中読んでみても「いや現在の日本には優れた書き手がいるよ」が骨子だったと思うんだけどね。


まこういう言葉使いの荒さを挙げてもどうにもならないだろうなので、その骨子を読んでみるが、どうにも分からない。


まず一つ目。

水村さんがカノン(正典)として読みつぐべきだとしている「日本近代文学」の定義がきわめて曖昧であること。

どこが曖昧なのだというのだろう?しかも「きわめて」?
なんとも乱暴なのだ。すぐ次の行でsolar氏は、水村氏が「日本近代文学」という言葉で何を指そうとしているかについて、ちゃんと特定できているではないか。

水村さんの依って立つ「文学全集」的な文学史観そのものが、20世紀の大衆メディア社会の産物なのだから、彼女の大衆批判は成り立たない。

『「文学全集」的な文学史観』において「日本近代文学」が何を指すかの判断は少しも曖昧ではないだろう。文学全集に載ってる作家・作品でいいのだから。しかもsolar氏は、その『「文学全集」的な文学史観』が、20世紀の大衆メディア社会の産物であるというふうに更に特定しているんだから、ますます、水村氏の文学史観については、はっきり分かっている筈なのだ。
では繰り返そう。いったいどこが極めて曖昧なのだ?


二つ目。

水村さんの依って立つ「文学全集」的な文学史観そのものが、20世紀の大衆メディア社会の産物なのだから、彼女の大衆批判は成り立たない。

なんでなのだろう?
「20世紀の大衆メディア社会」なんて言葉が私から言わせれば極めて曖昧である。だって、1901年も、1999年も20世紀なんだからね。しかも大衆「メディア社会」という言い方してるが、たんに大衆というのと、どう違うのかもわからない。いかにも大衆を免罪しているかのように書いているが、水村氏への批判として「大衆批判は成り立たない」と書いているのだから、「20世紀の大衆メディア社会」=「20世紀の大衆」として話を進めても構わないだろう。
いずれにせよ、水村氏が批判しようとしているであろうのは、21世紀の大衆だから、21世紀の大衆に対して20世紀の大衆を引き継ごうとしていないという批判は十分可能だろう。
たしかに21世紀の大衆が20世紀と同じような文学史観を持っている事はありえるかもしれない。とくに何を「日本近代文学」とするかに関してなどは、1950年の人も2010年の人も大差ないかもしれない。
しかしその際も、21世紀の大衆がもつ「日本近代文学」への態度が20世紀の大衆と異なればべつに批判されたって構わないではないか。


それとも人は、どの時代の大衆に対しても否定するなら否定、肯定するなら肯定しなきゃならないのだろうか。
もちろんそんな事はあるまい。
なぜなら、solar氏は以下のように言っているのだから。

日本人は抽象的な「日本語論」ばかりが好きで、結局、どんな「日本語作品」なら正典として好ましいのか、という具体論になると、いきなり「円本」や「文学全集」的発想に馴致された、退屈な事大主義になってしまう。そこがつまらないのだ。

「文学全集」的発想は退屈で詰まらない、との事。でもその「文学全集」的な文学史観は20世紀の大衆メディア社会の産物だそう。であるからして、つまりsolar氏は少なくとも20世紀の大衆に対しては批判的であるはずだ。なにしろ退屈で詰まらないのだから間違いあるまい。
言い換えれば20世紀の大衆に対しては、solar氏はエリート主義的立場なわけである。さてここで現在の大衆に対してもsolar氏が批判的であるのらば、最初に出した疑問(どの時代の大衆に対しても否定するなら否定、肯定するなら肯定しなきゃならないのだろうか。)は、YESの方向で首尾一貫する。逆にいえば水村氏には一貫性がないという批判が正当性を持つ。
がしかし、首尾一貫させようとして、現在の大衆に対して批判的であるとするならば、水村氏と方向は違うとはいえ、solar氏は大衆批判者として同じ地平に立つ。
さてどうなのだろうか?