自由であり且つ不自由という事

珍しく言及されてしまったので、NaokiTakahashiさんのその前後のエントリも含めて読んだ感想を書こうと思う。もしかしたら雲をつかむような事を書いてしまうかもしれないが、今のところそのようにしか書けないので、もし読まれる事があればなんとかご容赦いただきたいと思う。


まず私がmojimojiさんの一連のエントリに対してなぜ易々とこれを許容できるかといえば、あそこで文学と政治が切り離されて文学および文学者が不当に貶められている、とは全く思わないからです。
mojimojiさんは違うとおっしゃるかもしれないけれども、彼の言葉も、私からすればまぎれもなく文学の言葉です。たとえば「パレスチナに用がある」なんて表現に文学を感じないでいる事が私にはできません。あそこで起こっていることは文学対文学であり、文学にとってはそのようなものは当然ありうる、特別嬉しいことでも悲しいことでもありません。
そもそも私には、文学と政治を切り離して捉えるような考え方がうまく出来ません。少なくとも意識的には。なぜなら、それらはその出自から明らかなように本来的に不可分なものだから、と考えるからです。だから、どちらが優位に立つか云々の議論となると尚更ついていけません。片方が別の方に対して優位に立ったり劣位に立ったりするような関係とはとても思えないのです。
これを言い換えれば、あらゆる政治の言葉はそれは文学であり、あらゆる(少なくとも近代の)文学は政治性を帯びている、となります。ときに、いやこの国に暮らしているとしばしば、文学から遠いなという政治の言葉に出会いますが、それは文学ではないという事ではなくて単に文学として洗練されていないだけであり、また、政治性のないような文学作品も多くありますが、たんに政治性が隠蔽されているに過ぎないのではないか。いや、政治なんて一切関係ないよ、とおっしゃる表現者の方もいるかもしれませんが、それはその通りでしょうとしか言いようがなく、むろん、隠蔽というのは自分の意識に対しても行われるものでしょう。


というような事は、文学賞を授かるような作家であれば当然持っているような、比較的オーソドックスな考え方ではないか、と私は思っています。もっといえば、私が作家の「良心」なるものを信ずるとすれば、ここにこそある、と言ってみたい所です。mojimojiさんのような「圧力」も、当然ありうる事態と受け止めるだけの理性と度量を村上春樹が持っているだろう事を信じる事、にこそ。(もちろん作家のそれは、相手が理性にとどまっている限りにおいては、ですが。で、相手が理性にとどまっている限り、たとえば大江健三郎は、茶番とされるような裁判にもやってくるのです。)
むしろ村上春樹がこの程度の「圧力」で動揺してしまうかもしれないなどと思う方が、彼の良心への信頼としてどうなのだろうか、とすら考えたりもしますが、色々なかたちの信頼がありうるでしょうから、あくまでそう思うだけならば、特段どうこう言うものでもないのかもしれません。


文学賞を授かるような作家であれば当然持っているような」などと厚かましくも傲慢な書き方をしましたが、たとえば、第二次大戦のときにこの国の文学者の間で起こったことなどは当然知っているのではないか、という期待から、そう書きました。
ある英米文学の研究者は、同時代の英米の自由な文学にさんざん親しんでおきながら、1941年の出来事に感銘を受け、日本の使命のためなら英語を捨て去る決心すら、誇りを持って宣言したりしています。プロレタリア文学者や、政治と文学が切り離せると考える者からすれば、これは結局政治の方が文学に勝ってしまうのだよ、と言いたくなるでしょうが、私からすればそこで起こっているのは、文学対文学に過ぎません。
またこの頃、政治から遠い場所で自由に美を愛でていた作家もまた、熱心で激烈な戦争賛美者となっています。(軍部が強いたからだ論もあるでしょうが、一部の例外を除いてそれは成立しないと思います。)高村光太郎佐藤春夫北原白秋斉藤茂吉サトウハチロー・・・聞いた事がある名前ばかりです。もちろん聞いた事のない戦争協力作家も沢山沢山いたでしょうが、ここで言いたいのは、なぜ私たちが彼らの名前を聞いたことがあるか、という事。ぶっちゃけ、戦後の教科書などにもずいぶん彼らの作品は収録されているからです。なぜというなら、彼らの優れた作品は、ある意味普遍的に優れていてまた美しいとされていて、実際そうだからです。


文学(あくまで近代文学の話ですが以下略)が自由で自律的で「あるべきか」という議論は、やや退屈に思います。なぜならば、文学というのは、本来的に自由で自律的でしかありえないからです。江戸期の勧善懲悪にたいして自然主義文学が優位に立ったときそれは成立したのですから。国家、政治とともに。
何ものからも切り離されたいち個人を基礎として近代国家は作られ、何ものからも切り離された一個人という認識は何より文学がもたらしたものです。
というのが私の認識です。自分のことを、自由で自律的で、したがって普遍的なものを生み出しうると考える事が出来るのも、近代文学のお陰。というか、我々が使用している言語は、そのように自らのことを思わせるものとして成立している。
ここで逃れられないというならばむしろ、自由で自律的であることから逃れられない、と言うべきなのかもしれません。


がしかし、あるものから逃れられないとすれば、それは真に自由と言えるのだろうか、というのが、例えば先に挙げた文学者の戦争協力問題で問われている事です。完全に自由で、自律していて、普遍的な美に奉仕していると思われていた者が、その自由意識のもと、まぎれもない国家意志の体現者となってしまう、ということ。ここには偽りなどなく、戦争に協力するのが全く自然な事と思われたのですが、ナチス統治が終わった後のドイツ人の言葉で、なぜ協力したのかよく分からない夢でも見ていたかのようだ、という言葉を思い出します。言うまでもなく夢の中では何もかもが自然です。
しかし多くの文学者が戦争協力者になったことは、その出自を辿れば、そう不思議ではないのかもしれません。なにより国家を形作る言葉として文学は生まれたのですから、逃れようがない、という。
今日の優れた文学とされるものが、ときに、文学を読みなれていない者にとっては非常にとっつきにくいものとなっているのは、これらの事に対する批判があるからだ、と私は考えています。自由である自分の内から湧き出てくるものを自然に書き付けていく事への。そして普遍への。本来的に自由であり、また自由でなければ書けないものの、その自由さがある不自由さのもとにあるとすれば、その今ある自由は、自由を疑うこと、自由な個人である作家が、自由な個人である読者に、自然に分かりやすく届いてしまうことへの批判として使わねばならないのではないか。自分が何ものからも自由であると考える事ができるような言語の解体へと。これでは、とっつきにくくもなりますが仕方のない事です。


余談ですが、人は階級意識から逃れられないとするプロレタリア文学者は戦争協力者とならずにすみましたが、けっして威張れるものではないでしょう。戦時中の文学は奉仕する先が共産党ではなく国家であるというだけで、多くの文学者が戦争協力者になったことは、プロレタリア文学の敗北と捉えても良いのではないか、と考えます。


長くなりましたが、文学というものがこのようなものであると私は思いますので、文学者の政治的な言説など話半分にしておきなさい、というNaokiTakahashiさんの言葉に対しては、少し共感しつつも、少しでしかありません。話半分にしろ、と言われて「よしそうしよう」とできれば何の苦労もないからです。これは、近代国家は幻想だよ、想像の共同体だよといくら口を酸っぱくしたところで、容易に国家がなくならないであろう事とパラレルです。現代作家の多くは、まさしく簡単にはそうできないという苦労をしているのだ、と私は思います。
政治と文学を切り離して、いやこれは原理的にできませんから、政治家と文学者を切り離して、政治に関しては政治家の事に耳を傾けようと言った所で、多くの人はおそらく文学者の言うことの方を向くでしょう。それが、この国の約70年前に起こったことです。理性的に我彼の国力を説き和戦を模索するようなような役人は「奸臣」と切り捨て、「徹底抗戦」「玉粋」という単純で美しい言葉に皆なびいたのです。(これはをまたつい最近のアメリカでも起こったことです。オバマ氏の演説が、その政策に比べいかに文学的に洗練されているか。)
結局かように文学−われわれが自然に共感してしまう言葉−から政治が逃れられないとすれば、文学者をナイーブなものとして政治から切り離す事は尚更危険と私には思われます。その場合において、文学者のナイーブな、言い換えれば素人的な無責任な言葉が専門家の言葉を駆逐しかねないからです。
もっとも昨今は70年前と異なり文学者がまったく力を失いつつあるので、上記は杞憂かもしれませんが、何ものかが文学者にとって代わっているだけかもしれません。いま何が政治において力を持つかについてはっきりしないのならば、何かを超越した場所に切り離すのではなく、すべてを政治&文学の言葉として捉えた方が良いのではないか。
高橋源一郎という作家がいて、少女漫画や競馬新聞まで批評し、あらゆる所に文学の臭いを見出そうとしていましたが、そのことを今思い出しました。