「正論主義」ではありたい

(以下ただのつぶやきです。自分自身にとって以外はそれほど意味がないかもしれませんので一応)


未整理のまま。


さいきん、村上春樹のスピーチ以後、正論原理主義批判が多く見られるようになったが、一種の自浄作用としてアリだと思う。
けれどもそれが行き過ぎて、実感優先主義、生活優先主義にまで退行しないように、そして、「正論原理主義」からは距離をとっても「正論主義」ではありたいと思う。
思えばこのブログ、当初は、「日本人としての実感」に則した靖国参拝への疑義がきっかけだったし。
それにはてな界隈の外側では相変わらず、「当時の実感」に則した、大東亜戦争仕方がなかった論、が幅を利かせている事も事実なのだから。


「政治的に中立なんてありえない」という批判が正当であることと、自らにあるいは他者が中立性を仮託したプラグマティックな立場を認めることは両立するのではないか、とも考えたりする。


いやいや戦争に協力しあれは仕方がなかったんですと戦後に答えた文学者たちと、徹底して傍観者であった永井荷風とのあり方の違いについて最近よく考える。


「現実と理想」ということを私のなかで翻訳するなら、目の前の一番大事に思う人を裏切るような思想や今日という日を大事にしない思想にはいつかきっと裏切られるし、いっぽうで、人を一切傷つける事なしに何かをなそうと思っても何もできやしないだろう、となる。


正義を言うということは、今更当たり前の事を言うことなのだから本来的に気恥ずかしい、大声ではなく小声で言うようなものではないか。
そしてまた、正義を誰かに向かって言うときは、今更当たり前の事を突きつけることなのだから、相手の恥ずかしさに対する配慮も必要だろう。その誰かが、大声で正義を言っているような時は、仕方のないというふうになってしまうとしても、それは仕方ないといった行為の形をとることになるのだろう。つまりは、自分のやりかたを常に振り返って見るような。


水俣に関するエントリもそうだったが、swan_slabさんにはいつも省みるきっかけを頂いて感謝している。


参考:http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20090314#p1