うまく言えないのだけど運動について

いやその、うまく言えないことなど、公開の日記に書くなって言われればそうなのだが。


運動が先鋭化するのは、「皆同じでなければならない」という運動論の裏返しとしてあるのではないか。とか考えてみた。
一見、正反対のベクトルのように見えて、同じところから来ているのではないか。
「皆同じでなければならない」という意思がより強いからこそ、穏健的な大衆がついていけなくなったときの絶望がより強くなり、それは大衆との乖離を生む。そしてまた、ついていけなくなった者が出てしまった分、自分達がより速く・遠くなければならない、というように先鋭化する。運動の総量を保ちたいとでも言うように。


そもそも「皆同じでなければならない」という運動論自体にも問題がある。
それは、何より運動を優先し、皆が同じであることを第一義に考えがちで、「皆同じとならないのは考えが誤っているからだ」というふうに転倒しやすいから。分かりやすくいうと、革命運動が盛り上がらないのは、いま従っている革命思想が間違っているからではないか、というような。


もちろん、運動を見る視点はあって良いと思う。
実際の身体を動かす運動に例えるなら、先頭近辺を走るものがたまに振り返って後ろの様子がどうなのか見て、ああこういうコースなのかと考えつつ走っても良い。みずからの走りが後ろの者から全く消えてしまわないように調整せざるを得ない事もあるかもしれない。


何より実際の身体を動かす運動において、「皆同じでなければならない」という考え方はむしろ有害である。個人の資質を全く無視しているからだ。それぞれにとって、無理のない続けられるスピード・距離というのは、本来的に異なっている。5kmを20分で走るペースで毎日それが続くものもいれば、3日に一回1kmを30分かけて走るのが無理がない人もいる。
全員が同じペースではないからと遅い者の事ばかりを思ってペースを合わせたり、コースを変えてみたりしてもそれは運動ではなくなる。(そういう人は気質的に良い人ではありそうなのだが。)
実際の身体を動かす運動では、それぞれが、それぞれの範囲内で行うことによって、「健康増進」という目的がそれぞれにおいて達成されている。


言いたいのは、「皆それぞれが」でいいのではないか、という事。
いろいろな職業立場の人がいる。そのなかで、どこまでが無理のない範囲なのかは当然異なる。だからせっかく目的が同じなら、そのなかで距離やスピードを争って、どちらが目的に近づいているかを競ってみても仕方がないと思う。
問題は続けられるかどうか、なのではないか。何年も争っていたり、いろいろな要素が絡むのであれば特に。


むろん、”どこまでが無理のない範囲か”というのはたいてい自分で決めなければいけないから、そこにエクスキューズが紛れ込む危険性は確かにある。しかも、大いにある。
ただそれを差し引いても、自分が続けられる事が可能な無理と思えない範囲で、と思うのだが・・・・・・。


水泳を何年もずっと続けているが、週三回1時間で1キロみたいな、ある程度自分のペースみたいなのが出来てしまってはいる。不思議なのはそれでも向上心が残っていることだ。いつももっとスムースに水に乗るには、とかマイナーチェンジを試みながらやっている。
続けていると向上心も残るのだろうか?


実際の運動から連想しただけのあまり意味のないエントリだったかもしれないが、とりあえず何よりまず自分のために記しておく。