表現への規制に関して思っていること

何を書こうとしているか、実は余り決まっていない。
殆ど感想に近いものとなる可能性が高いので、例えばこの問題の実務的な面について問題意識を抱いている人などは、ここで読むのを是非止めて欲しいブコメばかりあちこち残してきて何も書かないのはちょっと一方的な気がしただけだ。


最初に違和感を抱いたのは次のような類の意見。
「表現というものは、凡そ何だって程度の差はあれ暴力的なのだから、あれこれ区別せずその存在を甘受すべきだ。それによってより文化が豊かになるし、またそもそも区別なんてできない。だから規制しようとすると全てを規制しないとおかしい。子供にもすべて晒して良い。」
(似たようなものとして、「多かれ少なかれ、人はそれぞれ何かに対して恐れを抱いている。だから、そのようなものを規制の根拠にしてしまえば、多くのものが規制されてかねない。また不安感じたいも曖昧だ。」というのもある。)


例えばテロを非難するアメリカこそがテロ国家なのだとか日本にいて安穏な消費生活をしている人だってただそれを非難する事はできない我々も加担しているのだ、とか、そういう語りは昔からある。
しかし俯瞰的に通常イノセントに見えている側の暴力をあばき出す、というのではなく、暴力を言われた側がそちらも暴力だなどと返してみたり暴力を遍在させてるのには正直ついていけなかった。返す刀に含まれる暴力になどたいした問題意識があるとは思えず、しかも悪くするとあちこちに暴力を散らすことで自らの暴力を軽減化させるようなものに見えてしまう・・・・・・。


暴力を区別して語るのは一方を正当化するものだという議論も昔からあったけど、逆に暴力を区別しないことが正当化に繋がっている(かのように見える)このような議論を目にしまうと、暗い気持ちになって、区別してるじゃないか、といってみたくなる。


一家揃って『名探偵コナン』を見ることはあってもまさかそこで続けてエロDVDを見る事はないだろうし、女性がいる職場で週刊大衆を堂々広げたりはしないだろうし、程度の差はあれ大抵の人は「区別」を持ち込んでいる。
何だって暴力的だ区別なんてできないと放言する人には、自分の娘の前でエロ本読むのか、と問うてみればいい。(そんな事したら奥さんに殺されます。)


区別ということでいうと、今は放送にかんする倫理が厳しくなったようでそんな事は少なくなったのだろうが、中高生のころ家族でテレビを見ているときエロティックなシーンに出くわして、それまでも充分静かに見ていたにも関わらず、改めて静けさが際立って迫るかのような長い居心地の悪さを感じた人は結構いるのではないか。これも区別のひとつなのだが、しかしあの居心地の悪さというものは果たして解消すべきものなのか。親子でフランクに性について語り合ったりすべきなのか。


どうも違う気がする。親をまず他者化すること、自分のなかに親と違う部分を見出すことが内面=近代的自我の獲得の第一歩なんじゃないか。たとえば親に対して秘密を持てること。中でも、性というより人間の根幹に触れる部分に関しては、親と語り合ったりできないこと。
もしかしたら内面を保持したり育て上げたりするためにこそ、区別された場が必要なのではないか。TVなどでエロティックなシーンに出くわした後に、それについてオープンに語り合ったり細やかに解説するとしたら、それこそ親に馴致された内面となり、そこには、「青少年」の「健全な育成」という目的をもって子供の隅々まで関与していこうというのと同じくらい、デストピアな臭いが漂う。子供には良いも悪いも全て晒して選ばせるだって?親にオナニーなんて見られたくないし、親だって薄々分かっていても見たくはないだろう。
(親子関係から離れて付け加えるならば、例えば職場が堂々とヌード写真を張ることができない場であるというのは、貴方がゲイであってもオタクであってもそれを表明しないで済む場でもあるということ。)


たとえば表現規制に反対するものが、それでも家族の前ではエロを隠したりするのは、この内面獲得のプロセスに無意識に従っている。つまり場をきちんと形成している。無意識にでも、自分が内面を獲得したのはその区別された場の恩恵だということをわきまえているかのようですらある。
そして、この区別の延長させていけばそれは、規制を積極的に推進する人はともかくとしても、規制に反対しない人が求める「場」と結果として重なる部分は少なからずあるのではないか。セカンドレイプに値するとか女性蔑視であるという理由で制限を求める人達が出来を期待する「場」と、オタクと称されてしまう人を含めたいていの人が実行している行為から延長された「場」を、重ねる事は全く不可能なんだろうか。
規制反対派のなかには、「表現規制に反対するためにオモテに出ざるをえないが、そっとしておいてくれ」という二律相反に悩まされている人がいるが、片方は隠れろ、片方は隠れたいのだから、本当は、規制反対しない派の一部と利害的にも一致しているはず。
ではなぜこの二者が対立してしまうかというと、おそらく重視している「場」が異なっているのだ。


民主主義(というより自由民主主義)は自分の内面を語ることを迫られないことを基礎にしている、と思っている。端的にいえば、選挙では誰が誰に投票したかを分からせない。無記名投票によりより内面を反映させつつ、誰の内面かは必ず切断しておく。内面まで賛否を問うような社会は、民主主義と称しても、連合赤軍的なものに行き着く。
語ることを迫られないというのは、ときに、自ら語ることをしないというのと表裏一体であったりするような気がする。誰かが語れば、自分も語って良いと思ったり、そうやって多くの者が語りだせば、あるいは語るべきという雰囲気すら出て来はしないか。
インターネットのようなどちらかというと公的な空間で、自らの性遍歴をあけすけに語る人がいて、耳を傾けるべき内容のものがそこそこあるせいか、あまりそれを否定的に捉える人はいない。しかし、その地続きで幼児への性的興味を語る人もまた居ることを考えると、ネットというのはそういう場なのか、という疑問も生じてくる。たとえばゾーニングを主張するような人が自らの性体験をネットにおいて語る、というのはどういう事態なのか。
おそらくネットをどういう場と捉えるかにかかっているのだ。これがもし表現の場であれば、昨今のような状態となっても致し方ないと思う。しかしこんな公的に開かれた場所が、表現の場なのか。


表現は制限を嫌う。というか制限されない事によって表現が表現足りうる。例えば文学の歴史というのはそういうものだった。過去どれだけの文学が、とりわけ性的な内面を赤裸々に語ってきたか。そういう文学の成立とともに、近代的自我は、親や日常空間から「自分」を秘匿しつつ、一方であけすけに内面を語り合うことで内面を獲得し、あるいは確認しあい、成立してきた。
しかしかつてはそれらはたいていが書籍の形となっていて、図書館や本屋で出会うものだった。自分の本棚をあまり他人に見せたくないという人は多いと思う。かように日常からは区別されてきたものが、ネットやアニメ文化の拡大により日常に侵食してきたのが、規制論者がでてくる遠因でもあるんだろう。


整理する。
一方で隠しつつ、一方で語る。近代的自我というのはこの二つの場において歩んできたと思うのだ。(三島のようにゲイが主人公の小説を書きながら、ゲイであることが公然となっているかのような例もあるから万遍なく絶対なものとはいえないが。)
そして、そのようなものであれば、オタクと称されてしまう人達にだって語る場というものが必要だという事になる。それがない世界は、大げさにいえば自我を認めない=人である事を認めない世界くらいのものに感じられるだろう。
規制推進派に、あたかもそういう場を認めないかのような人がいるのは度し難いが、一方で、規制反対派のなかに、隠す場というものを軽視しているとしか思えないような人がいる。
しかし、より緩やかな前者の中には、隠れていればいいよという人もいて、また規制反対派だって、恐らく日常においては隠している。ここでの対立は、それぞれが軽視しがちな二つの場の一方について配慮すれば、収束はしないまでもそれほど激化することはないのではないか。


長くなったが、じつは最後まで一番肝心な問題ついて放置している。人によっては此処こそが一番の問題だろう。リンク張らない限り読まれる事は少ないブログだし、最初に感想みたいなものに過ぎない、と断っておいて良かったとしか言い様がないが、その問題とは、「隠された場のみ」から「隠された場と語る場の両輪」へ青少年をどう移行させるか、という問題だ。
これに関しても凡庸な事しかいえないが、学校など親子関係以外の社会的な関係の場さえ用意されていれば、青少年に対して一定の制限は仕方ないのではないか。教科書とか推薦図書的なものだって、それらをもって、語るものとしての自我形成には充分と思えるし、親子関係の間ですでに性的なものが憚られるものとなっていれば、社会的にもそれがおおっぴらには出来ないものとして受け止めるだろう。ひいては、一定の年齢まで禁止される事も受け入れることはそれほど難しいとは思えない。


・・・・・・


日常において区別しているのだから、規制されるべきものとそうでないものも全く区別できないという事にはならない。できないのではなく非常に難しいという事なのだ。であれば、例え区別が可能であっても一切を規制すべきではないというラジカルな立場を除けば、残るのは、誰がどのようにどういう基準を持てば困難さを軽減できるかというようなテクニカルな問題だけなのだと思う。そしてテクニカルな問題はまだ区別を諦めるところまで突き詰められていないように思える。

何も語っていないに等しい内容だが、終わる。