「英霊たちの犠牲」という言説 〜なぜ祖父ばかりが尊敬され、父は尊敬されないのか?〜

 
ウヨクの言説として非常によく聞かれるもので、以下のようなものがある。
「今の日本の繁栄は、かつての英霊たちの貴い犠牲の上に成り立っているのである」
いわゆるネットウヨだけじゃなくて、佐伯啓思みたいな著名なウヨクも言っているくらいのものである。
 
これは曖昧な言い方である。
今の日本の繁栄は英霊たちの犠牲のおかげである、とまでは言っていないからだ。
あるいは、英霊の犠牲が繁栄をもたらした、とまでは。
 
もちろん、原因結果という事でいえば明らかに、日本の繁栄は、英霊たちの行為ではなく、むしろ彼らの行為を否定した人たちの行為がもたらしたモノである。
戦後に生きた人々が、戦前戦中のあり方を否定し「かつてのようにはしないこと」をもって日々努力を重ねてきた、そのおかげで今の繁栄があるという事である。
繁栄を感謝しなければならないのならば、戦後世代−父の世代にこそ感謝しなければならないのは自明の事と思われる。
ではなぜ今の繁栄を考えたとき、彼らウヨクにとって第一に想うのが英霊たちになってしまうのか?
 
#そもそも、ウヨクの多くは今の繁栄に否定的だからその担い手にも否定的、という事もあるだろうが、今回は扱わない。
 
ポイントは「犠牲」というところにある。
じっさいに日本の繁栄をもたらしたのは誰かという事は問題ではないのだ。
どのように考えて行動し、そして、じっさいにそれによって命まで落としたかどうか、が評価の軸なのである。
 
純化すれば、おそらく彼らウヨクの中では次のようになっていると思われる。
・父の世代→考え・・・自分の事だけ、命・・・落としていない(し、それを第一に考えている)
・祖父の世代→考え・・・国や家族、命・・・落とした(し、それは二の次だった)
 
これらのうち、どのように考えて行動したかの部分については、誤っている。
高度成長期以降はともかく、敗戦直後に生きた人々については、彼らも激烈に国のことを考え行動していたのである。
国のことを考えたがゆえに新憲法を受け入れ、国のことを考えたがゆえに戦争責任を追及し、単独講和に反対し(あるいは賛成し)というふうにやっていたのである。
敗戦直後、ただちに個人主義が蔓延したわけではない。
むしろ敗戦後の言論の一部には、戦時中は天皇の名を借りた利己主義がはびこっていた、というものまである。
各々が自分の方法こそが天皇のために良いと思い込み、自分の組織、功名を競っていた、これほどの利己主義があろうか、という事である。
 
命にかんしては、どうしても祖父の世代のほうが強く訴えかけてしまうだろう。
じっさいに命を落としたかそうでないか、というのは、やはりとても大きい要素だと思われる。
父親の世代が、いくら身を粉にした、寝る間もなく自分の時間を犠牲にした、といってみたところで、死ぬところまではいっていない。死んだものには敵わない。
 
しかし、英霊たちは、いったいどのくらい立派だったのだろうか?
彼らが皆、積極的に、自発的に我々後世のために死を選んだ、というのならば話は違うが、じっさいのところは、多くは上からの強制であり、横からの無言の圧力であり、といったことではなかったか?
もし祖父の世代の多くが、自発的に積極的に死を選ぶほどに立派だったのならば、アメリカ軍が上陸してきたとき、この国土に今のイラクの10分の1ほどの抵抗もなかったのは何故なのか。
 
彼らの世代が立派だったからではなく、その上司が無能、政治が無策だったから、そこに死が生まれたとしか思えないのだ。
だとするならば、彼らの霊に報いるために先ず行うことは、その立派さに感謝したり称えたりすることではないだろう(そもそも立派かどうか疑わしい)。
まず何がなんでもやるべきことは、死に追いやることになった無能さや無策さを暴き出すこと、なぜにこのような愚行が行われたかを解明し必要ならば罪あるものは裁き、二度と起らないような仕組を作ろうとすること、だろう。
 
英霊たちの行為を立派、などと述べてしまえば、その作戦を命令した行為すら立派になりかねないのだ。
順番にそってやるべき事は、まだまだ残されている気がする。
 
#究極的には天皇制の廃止だろうか
 
ところでもう一つ感じるのが、英霊たちの死が遠くなってしまった、ということ。
遠くにあるから「想う」ことが第一になってしまうのだ。
すぐ近くにある者にとっては、悠長な感傷どころではない、なんとしても避けなければならない、というふうになるのは充分想像がつく。
また恐らく、近くにいた彼らも、死に追いやられた人たちが決して立派ではないことを充分分かっていただろう。
これらの理由があればこそ、彼らがまず二度と起らないようにすることを優先して動いた。まったく当然だ、と思う。
 
このように考えてくると、いま、靖国に参拝しようなどと運動することと、例えばむかしの日教組の「教え子を戦場に送らない」という運動とで、どちらが英霊たちのことを想っているかといえば、圧倒的に後者だ、というふうに感じる。
これは嫌味ではない。
 
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ともあれ、余計なお世話と言われることを承知でいうならば、"英霊たちの犠牲の上に、云々"口にしがちな人は、いちど敗戦直後から昭和35年くらいまでのこの国の言論を、読んでみたほうが良いんじゃないか。
いかにこの国の戦後が、今の繁栄が、国のためを想う人たちによって築かれてきたか・・・
 
これは本心からそう思う。だからこそ、余計なお世話と思われても言っておく。
 
※以上の日記はいつも読んでいるApemanさんの日記のこの記事日本人が「虐殺」なんてするはずない、だって? - Apeman’s diaryに触発されて、いきおいで書いたものです。謝