今後のイメージを左右するのは何か?

そもそも戦後から70年代まで、日本の戦争犯罪が国際的にいくら語られようと日本という国のイメージはゆがんでいたとは思えないのだが、どうだろうか。
私の記憶では、戦後日本が、「何訳のわかんない事言ってるの?日本て平和憲法を掲げた穏健な国じゃなかったの?イメージ違うよ」というような国際的非難を浴びだしたのは、80年代に入ってからではないか。いちばん有名なのは歴史教科書問題だろうか。侵略を進出に書き換えさせた、といわれた件である。
80年代といえば、オイルショックだの円高ショックだのを乗り越えて、バブルに向かって一直線な時代。
だからといって、その好景気ぶりが近隣諸国の嫉妬を買った、というわけでもない。
原因は日本の側にあるのだ。


それまで敗戦国として黙らされてきた日本の側が、自らの隆盛振りから、ちょっとモノを言いたくなったりしたわけで、またそのモノ言いは多分に右傾化したものだった、と。隆盛ということは当然資本主義の勝利、保守の勝ちを意味するわけで、そんな気分から発せられれば当然右傾化したモノ言いになる。
ただこの頃右傾化した発言をする人たちは、好景気の恩恵を直接受けたとは思えないたんに復古的な人が多く、ただ好景気によりそういう発言が一定程度受け入れられる素地ができてきた、というべきか。
そういう右翼的発言があるたびに陳謝したりしてやりすごしてきたわけなのだが、この頃はそんな種類の発言は当の日本でも、アカデミズムはもちろん、大衆のあいだで支持の声もなく、そう大きな問題には発展しなかった。
しかも右傾化した発言を支持する国は皆無であったが、文句を言う国もまた限られていて、アメリカは静観していた、という事もあると思う。
とにかく、アカデミズムを頂点とする言論のヒエラルキーはきちんと保たれていたのは大きい。
事態は今ほど深刻ではなかったのだ。
ときどきヘンな人が出てくるけど、それはどこの国でもあること、日本は平和を愛する穏健な国、というふうにイメージは保たれていたと思う。


そのヒエラルキーは全く崩れてしまったわけではない。
今だってアカデミズムの世界では、『諸君!』だの『正論』だのはまともな雑誌とはおもわれていないのではないか。ああいう雑誌で頑張って威勢の良い右翼的言辞をはいているのは、たいてい市井の評論家かジャーナリストであってたまに大学教授がいても専門外の人だったり(社会科学系より文学系の人が多い)。
変わったのは、大衆の声が表面にでてきた、という事。インターネットの出現が大きい、というか、ほぼインターネットによる現象だ。
アカデミズムに属していなくても、高校しか出ていなくても、平気で政治的発言をするような人々が出現してきたのだ。
大学教授であれば、自らの言論は出世にも給料にも影響しちゃうが、大衆はそんな事がない。根拠のない思い込みや、論証できない事をいくら述べても彼らは平気。他人の私権を侵さない限り、無責任でかまわない。適当なことを言って例え事実無根と誰かに論破されようと、大衆はそのせいで給料が減るわけでもメシが食えなくなるわけでもないのだ。


民主主義であるかぎり、政治家はとうぜんそういう声に答えようとするだろう。大学教授も、ネットにへばりつくプーも一票は一票。
そしてテキトーな大衆の声は、政治家にのって海を飛び越える。
もし日本のイメージがゆがむとしたら、こういう現象こそがゆがませているんじゃないの、と思う。
昔どんなだったかより、今どんなであるか、の方がイメージに与える影響大きいしね。昔日本がどんな事していようと、それを認めようと、真摯に反省すればイメージなど微塵も悪くならないのは言うまでも無い。


ところで、よく日本の外交はヘタだのなんだの言われたりするけど、インターネットがない頃ってこんなに外交に関してヘタだのなんだの言われたっけ、とも思う。
ネットの声を政治家が気にしちゃったりするからダメなんじゃないのか。とはいえ政治家は気にしちゃうのは避けられないだろうなあ。
結局日本の民度が、こんなにウヨクやレイシストがのさばるようなネット言論を放置して許しちゃうほど低いものであるかぎり、今後日本のイメージはどんどんゆがんでいっても不思議ではない。