もはや高齢者バッシング?

今日も同じブログから違うエントリ
ずっと高齢者のターン - アンカテ
我ながらちょっとしつこいかもしれない。そんなにヒドイ事が書かれているわけじゃないんだけれども。
なんでこのブログの言う事にいちいち馴染めないのかなあ、と考えるに、きっと時代に添い寝するような言説が嫌いっていうのが自分にはあると思う。
それとここ数回の世代論に関して言えば、若者に対して"僕は他の中年や老年と違って君たちの味方だよ"って言わんばかりのマインドの人があまり好きではない、というのもある。どっか疑わしいのだ。


今回まず思ったのは、高度成長期に青年〜中年を過ごしたからといってそれだけで「恥知らず」とまで言われちゃうのか、という事。
いや違うよ、「食い散らかしてそのまま逃げようとしている」から恥知らずなんだ、という事なんだろうけど、具体的にどういう行為を言うのか、顔が見えないのだ。顔が見えないから、生まれ育った時期だけで恥知らずかそうでないかを決定しているようにみえるのだ。
どうしようもない年寄りなんか何時の時代にも居ただろうに、そういう特殊例から総論を引き出していないか。私が知る年寄りといえば、昔の倹約の癖が消えず、ペットボトルやフリーザーパックをいつまでも再利用しようとしたり、スーパーのレジの後ろでただで貰えるビニール袋で身辺のものを整理するような、そういう年寄りばかりなのだ。(清潔や見てくれにこだわり捨てることに躊躇がないのは、むしろ若者の方だという気もしないでもない。)
で、そういう人たちはまた、確かに年に何度も旅行したりもするのだが、それが食い散らかしなのだろうか。食い散らかしだとしたら、もっと上品に食え、つまり、年寄りは年金を負担している人の眼を考えて目立たないように慎ましくお出かけしなさい、などと言わねばならないのか
四駆で山道をゴリゴリ上がっていってコールマンのテントを張ったりするわけじゃない、たかが山歩きだろう。そんな事まで許せずディシプリンを求めるとしたら、ずいぶんと窮屈な殺伐とした世の中であること。
納税者の負担感などを配慮して支給額を減らすようなことがあっても、だからこそ、態度云々まではしたくない。市井の言論において、「恥知らず」だの言うのは、どうかな、と思うのである。


次にアレっと思ったのは、主観の差異を根拠に搾取を容認したりしなかったりするところ。
高度成長期の搾取は、搾取される側に「未来」が与えられていたから、その搾取の埋め戻し(年金の受取りなど)に対しては慎ましく謙虚に頂かねばならない、というふうに書いてるとしか思えない。
「受取る」ものにとっては、寝耳に水の話だろう。そもそも所得の高いものから低いものへの分配政策に過ぎないものを「搾取」と表現することも問題なのだが、高度成長が続いていれば、そんな「受取る」側の志など問題になどならなかったはずなのだ
逆に想定してみれば、今搾取されている若者は「未来」がないのだから、将来「受取る」に際して若者への配慮などせず堂々とできるかというと、そんな事はないだろう。現在のような少子化低成長が続く限り納税者の負担感には常に配慮しなきゃならないだろう。
搾取されている時点で被搾取側に「未来」があるかどうかという主観の存在は、したがって、考慮してもあまり意味がないと思う。


かつては「世の中が輝かしい未来に向けて着実に進歩している」という意識があった、という所にも引っ掛かりを覚えた。
そうだろうか。
未来など考えてないからこそ、先送りが行われ、こういうふうになってしまったのではないか。
かつて人々が、子供を沢山産み、家を買ったのは、たんに社会的な規範意識が少なからず残っていただけの話で、未来にそんな期待を抱いていたとは思えないのだ。たとえば、昭和30年後半頃から40年後半の頃まで、そんな未来志向の、文芸作品なり娯楽作品があったかどうか、すぐには思いつかないのだ。鉄腕アトムだってそんな楽観的な内容だったか。
また彼らが未来を考えず、また今の若者が未来をより考えていたとしても、それは高度成長の停止などの外部状況がそうさせただけの話で、必ずしも前者の方が倫理的に責められるものでもない、と思う。