体験の風化

今日気になったブログはこれ。
http://d.hatena.ne.jp/Schwaetzer/20070809
いつもと違って、最初読んだときは、とくに総論的に反対する気分にはならなかった。
書いている人の真摯さが、ある程度伝わってきたからである。


「平和の大切さ」「唯一の被曝国」をアピールすることが、自らの加害者である面をスポイルするのか、どうか。
これがまず第一に浮かんだ疑問である。
スポイルするのならばそんなアピールはやめたらいいし、スポイルしないのならばアピールをやめる必要はない。
もっと一般的なタームを使って言うならば、被害者としての戦争体験ばかりが言われることで、加害者としての戦争体験は隠れてしまうのかどうか。


"もう被害者面はやめて、加害者である面をもっと語れ。"
そう呼びかけたところで、何がどう変わるのか。誰がどんなことを語りだすというのか、そんな気がする。


Schwaetzerさんはこう言われる。

日本の反戦市民団体は「平和」や「反核」でこの50年一体何をしてきたのだろうかという疑問が基本的にはある。そりゃ政府は力がないなりに主張するだけはしたんだろうと思うし、その背景にそういう団体の運動もあったに違いない。だけど、現実はほとんど変わってない。極端な話、核実験が起こるたびに座り込みやって愚痴ってただけじゃないか。

いままた反・戦後サヨク言説を繰り返さなければならないのだろうか、という疑問もあるが、ここで言いたいのは、本当に「現実はほとんど変わってない」のだろうか、ということ。
愚痴すらも許されないのか。あるいはもし今まで誰も愚痴ることがなかったら、どうなっていたか。日本の訴えで、核の拡散を少しでも遅らせるような事はなかったのか。
あるいは、ほんとうに「変わっていない」としたら、そこに訴えが十分でなかった可能性は全くないのか


その人の一番強烈な体験が、被害者体験だったら、まずその事を言うことを開放してあげた事は決して悪くなかった、と思う。
もう何年もすれば、直接体験した人などほとんどいなくなってしまうのだ。せめてそれまでの間でも、体験を開放しておくべきではないか。
体験は黙っていても風化するのだから、意識して黙ることなどすべきではない、と私は思う。
まして、現実が変わるかいなかなどという尺度において。


また、あえて「変わるかどうか」という事でいえば、「もう被害者面はやめて、加害者である面をもっと語れ。」と言うことで、「変わる」期待値は低いのではないか、と考えている。
日本が加害者であることは国際的には常識である。
これは動かしようがない。
そして、その事がかえって加害者体験を語りずらくしているのではないか。


あの戦争のとき加害者だった人たちは、自分たちは加害者ではなかったと思っているから、その体験を語らないのではない。
加害者であることなど分かっているのだ。それを声高に言われることで、その面だけがクローズアップされかねない事を彼らは恐れるのではないか。

私は靖国神社にも行ったことがないし、行くつもりもないし、閣僚の参拝などもってのほかとは思っているが、せめて、上記の太字部分のシンパシーを抱きたいのだ。
いまここで、追及姿勢になったところで、語る量が増えるわけではなく、そうした政治的対立を続けているあいだに、彼らはどんどん体験を内に隠したままこの世からいなくなってしまう。
それならばせめて彼らの被害者意識の部分だけでも開放し、淡い期待とともに、加害者部分の語りも引きずり出されることを期待したいのである。
ついでにいえば、それで加害者部分の語りが出てこなくたって仕方がないとも思う。両方とも内に抱えて何も語らずにいなくなってしまうよりは、せめて被害者部分だけでも語って欲しい。彼らの大部分はもう80才超えてきているのだ。


以下は蛇足かもしれないが。

だけど、ひょっとしたら自分のじいさんがさんざ人を殺しまくってたかもしれないってことはたいがい口にチャックしてるんじゃないの。

戦争経験者の人たちを「じいさん」などと述べるような世代は、加害者体験などないのだから、「チャック」もなにもないのではないか。
「平和が大切」と訴えるような若い世代で、意識的に加害者であることに目をつぶっている人など殆どいないと思う。
意識的に加害者であることに目をつぶるような輩は、広島にも長崎にも行かないだろうし、慰霊祭などになんの感慨もないだろう。また、そういう人は靖国には行くかもしれないが、政治的な意味で行くだけであって、平和など祈願しているかどうか。そんなふうにネトウヨ的な政治意識を抱えるくらいなら、何も知らず無邪気に唯一の被爆国であることだけを抱いているほうがまだマシだ、と思う。