ファシズムの臭い

相変わらず時宜を逸した話題。
以下の記事を(作者に従って主に末尾の方の部分だけ)読んだのだが。
2007-08-01 - 地を這う難破船
で、読んで、自分は小泉純一郎という人間はやっぱ好きになれないな、といった感想を持った。


ここでもう一度孫引きさせてもらうと、彼は、

投票に行かなかった、選挙権を行使しなかった人の意思を斟酌する必要はない。権利を行使しなかったのであるから。考える必要はない。

などと言ったらしいが、こんな言葉、"格好良い"などと寸分たりとも思わない。感じたのは、違和感というか、嫌悪感というか。


考える必要はない、といくら啖呵を切ったところで、現実的に言って、選挙に行かなかった人のことを全く考えずに日本という国を運営していくことは不可能だ。
選挙に行った人の生活のみを安定させ、そうでない人の生活を不安定にさせる方策など無い、というか、近代国家というものは、全ての人を参加させることによって成り立っている。富める者も、貧しい者の積極的な経済活動があって、より富める、というような。


また常に、圧倒的大差で勝つような人は別なのかもしれないが、選挙に行かなかった人も次の選挙で投票権を行使できるんだ、という恐れだって抑止力になりえるだろうし、さらにいえば、何も選挙だけが民衆の政治的行動ではなく、デモだって言論だってあるのだから、選挙に勝って好きなことやり放題という事にはなかなかならないだろう。
前者の面で言うなら、仮に投票率が100%近くて、そこで半分以上の支持を得るのと、投票率50%で半数以上得るのとでは意味合いが違ってくる。お墨付きの度合いは明らかに100%で過半数の方が上なのではないか。つまり、投票率が高ければ高いほど、勝ったほうが好きな方向に持っていきやすいのではないか。


仮に投票率50%のなかで過半数30%を取ったところで、明らかにNOの意思を示した20%のほかに、そこでは潜在的にNOとなりえる50%を抱えることになるのだ。
これは、そんなに不健全な状態とは思えず、むしろ、投票にいく必要を痛痒に感じていない人にまで選挙への参加を強制するような雰囲気があるとすれば、それこそ不健全な、いや〜な感じがするのである。
また小泉氏や他の諸氏が白票でも良いからと言おうと、一般的な、選挙に行くべきだという言説のなかには、よく考えて投票せよ、という意味を、少なくとも公的には含んでしまっている。「その場で適当に選んでもいいから、是非投票に行こう」なんてのは聞いたことがない。つまり、政治への関心の強制=内心の強制を含んでしまっていて、これもまた、非常にいやな雰囲気なのだ。


もちろん、こんなのは言い訳めいている。
いやいやながらも選挙に行く人のおかげで、50%近くを維持できているのだから。
選挙には、行かないよりは行くべきだということになるだろう。
ただ、この人のように、公的な言説に対する違和感を、孤立しても良いから主張できてしまうような人のマインドも是非同時に大切にしたい、という事なのだ。
おそらくは、こういう個を害する空気に微妙な違和を感じる人(たち)こそが、民主主義が暴走しそうになったときの防波堤となりうるんじゃないか、と。
あるいは、こういう人(たち)は、今は、そこそこの投票率だから行かないけれども、逆に、みんなが行かないという空気になれば行ってくれるのではないか、とも勝手に期待しているし、憲法や、徴兵制などの重要な案件にしぼったような投票まで無視することはないんじゃないか、とも思う。


私も敢えて書けば、そもそも参議院ということもあって、今回の選挙には行ってない。
さきの郵政選挙では、小泉圧勝ムードに反発して、こんな党に投票せにゃならんのか・・・と虚しい気持ちになりながら選挙区では民主党に入れた。
とりあえず、今後も空気という奴にはなるべく逆らって行こうと考えている。