差別と相対主義

今日もブクマコメントのフォロー。


「差別・偏見は常に絶対悪」という考えも危険 - andalusiaの日記を読んで最初は、「グレー」を問題にしているのかと思った。ようするにもっと差別の射程を長くとらないとダメだぞ、と。
ブクマへの返答の欄にてこういう言葉があったからだ。

また、「親切のふり」(つまり悪意)なのはもちろん問題ですが、本当に善意で差別的なことを言う人こそ問題じゃないの

それは単純に、「ニコ動ユーザの0.1%の黒」より、「同20%のグレー」のほうが社会的に見て問題だと思っているだけです。

それでコメントしたのだがどうも違うようだ。それにしても、「悪質」と「問題である」と、andalusia氏にとってはどっちが問題なの(批判されるべきなの)、といいたくなるんだけど。


なんか私の偏見によれば、どうもandalusia氏は差別を絶対的な悪とすることによってグレーゾーンの言論まで萎縮・規制されてしまうことへ危惧をいだいているかのようである。どちらかというとグレーゾーンは批判すべきではなくて、場合によっては守るべきものかのようだ。
たしかにこれなら理解できなくはない。例え、その動機がたんに、多くの人たちが正義面しているしている事へのいらだちからはじまるものであったとしても。(過去に、言葉狩りなどの問題があったことは確かである。)


ただ、同意はしない。
第一に、「差別は悪だ」という言葉が絶対的なものとして一人歩きして、それが副次的な問題を起こすからといって「差別は悪だ」と言えないとしたら、そちらのほうが大問題だからである。
「人を殺すのはなぜいけないか」などもそうかもしれないが、哲学的科学的に厳密に正義と結論づけられないからといって、何もしないわけにはいかないだろう。厳密に真、正義とするのが難しいことであっても、人はそれぞれの正義を持ち寄りすり合わせ、多くの事を同意することができる。そしてそれは、当座これ以上の定義はいらないだろうっていうくらいの、効果をもたらすのだ。


なるほど確かに人は偏見から逃れることはできないのかもしれない。しかし誰もが偏見から逃れられないのならば、条件は同じなのだから、皆それぞれの偏見の混じった正義を持ち寄り、一つでも二つでも同意すればいいのだ。
それぞれの正義について「あなたのは偏見がこんなふうに混じってますから」「あなたのもこんな偏見が・・・」なっていっても先に進まないし、そもそも皆が偏見を持ってるのが当たり前なら、殊更指摘するまでもないのではないか。
そもそも思考のバイアスを厳密に言い出したら、我々はみな近代的理性の奴隷であって、誰もそこから逃れられないんだし。(そういうなんらかの制限から逃れうると考えるのも近代的理性の特徴らしい)


それにもうひとつ付け加えれば、人は偏見から自由になれないというのはたんに営為的な事柄にすぎないのに、andalusia氏のブログでは当為的に語られているのも気になる。
「偏見と共に生きなければならない」と解釈できなくもなく、「差別は悪」と語ることの副次的な作用に敏感?である人が、このような事に気を配らないでいられるのも腑に落ちない。そんな事をいってしまえば、黒人解放運動の最中、どうしたって黒人に対する差別感情は無くならないよだって云々、と傍観する事もなるだろう。


結論を急げば、偏見から逃れられないが、偏見自体はどんどん変わっていくものだ。だから意識してそれに従うべきと、までは言うべきでないと思う。そして例えば人種や民族に関する偏見が今のように穏やかなものに変わってきたのは、ときに多くの人の「不寛容」な運動があったからでもある。
また何が正義かを一義的に決められないのも当たり前で、もちろん断続的に一義的にその場その場で同意しなければ人は行動できないが、それはどんどん更新されるものだ。何が差別かについてだって、どんどん考えが移り変わっている部分がある。決められないから何もしないのではなく、何かするために当座一義的に決めておくのだ。


だから、もちろんそのような多くの人の合意があるからといって、絶対的に服従しなければならないわけではない。いつでも更新すべく自分なりの正義を容易しておいてもいいだろう。ただ、その多くの人の合意の歴史的な蓄積とか手続きとか様々な要素を考えて、もはや絶対的と考えるべき事柄もあって、私がバランスという言葉を使うのなら、こういう所で使いたいと思う。


↑また、ただの感想文だなあ。つっこみ所たくさんという感じだが、半ば自分のためのメモとして残す。