優しさは勘弁してください

例によってブクマコメントのフォローで。


一部で話題になってるid:hashigotan氏のDISを発端とする話なのだが、じつは本当の発端はそれではない。
「ある個人史の終焉」の作者が、その強烈なDISコメントに反応して記事を消してしまったことこそがそもそもの発端なのだ。記事の抹消なんて事がなければ、それぞれが個人的な思いをぶちまけてるなあ、で済んだわけで、hashigotan氏のDISの是非がここまで問題化することは無かっただろう。


やれ幸せを謳うものは弱者への一定の配慮を持つべきだ、みたいなにわか道徳者の説教すら最近は散見されるようになってしまった。
いい加減にしてほしいというか、どこまで配慮を求める気なのだろう。新聞雑誌の読者欄みたいなものにネットをしたいのだろうか。


私は「ある個人史の終焉」みたいな記事がアップされることを完全に許容する。あの程度のものが許されなかったら、我々が個人的な思いをネットで口にすることなど殆ど不可能になるだろう
そもそもあれは、子供を持つとこんなに世界が違って見える、というありふれた凡庸な認識をハルキ風味にコーティングしたものでしかない。相当に上手くコーティングしたので人を呼んだ。(私はそのコーティングの裏側に、なんかこのふたり幸せそうにはみえないなあというのを読み込んでしまったが。)
しかし、小説だろうがエッセイだろうが、ネットだろうが書物だろうが、ああいう思いはどこにでも転がっていて、避けることなどまず不可能だ。たとえば西原理恵子毎日かあさんみたいなものですら、読みようによっては、強烈な子供賛歌だ。子供を持つって事は素晴らしいって叫びに溢れているように思える。いったい彼女にどんな配慮をせよというのだろうか。


一方、「ある個人史の終焉」にたいするDISも、あの程度のものはとうぜん許容範囲だ。hashigotan氏に反省の必要は無い。
「三日以内に消せ」なんて罵倒語としてはむしろ穏やかなもののうちに入れてもいい。それを、前後の文脈から罵倒語でしかないものを懇願と解釈し、反応するという余計な行為が、その反応がひとつのなすべき配慮として規範的に語られる事態を招いてしまい、また罵倒の是非まで云々されるようになってしまった。本質的には、「氏ね」と言われたから死にましたみたいな、大人気ない子供みたいな反応でしかないのに。


ネットを気遣いと優しさと配慮と道徳に溢れた、キレイキレイな、そしてがんじがらめの空間にしたいのかどうか、という事に、結局問題はなる。
hashigotan氏のDISが気に食わないのならDISり返せばいい。それを、記事を消すなどへんな自己規制をしたり、あるいは、「あなたの痛みは痛いほどわかりますが」などと優しさに溢れつつ甘言を弄して道徳と自己規制を強要すべきではないだろう。だいいち気持ち悪いし。


「あなたの10大小説なんですか?あーそれ選びましたかセンスいいですねー」みたいなよそよそしいヌルい記事しかネットになかったらどうか、と想像するに私は、「10大小説のくせに、なんで○○入れて△△入れてないの?頭おかしいんじゃないの、文字読めるのオマエ」みたいなものもやはり読んでみたいのである。そして、ネットの存在価値の一端はそういうところにもあると思うのだ。


「優しさ」や「自己規制」ではなく、「寛容」と「スルー」を。
清書された規格化された文字より、中途半端で雑念に汚された半紙からはみでるような文字を。