沖縄ノートについて 現在の関心

ブクマのフォローと、沖縄ノートをめぐる問題に関するメモ
直接的にはhttp://d.hatena.ne.jp/buyobuyo/20071128を読んだのがきっかけとなって考えたこと。

「かれ」という表現

まず私が「沖縄ノート」の訴状記載部分を読んで興味を持ったのは、大江氏が「かれ」と表現したこと。
それは、たんに大江氏が実名で書かなかったことを意味するだけではない。たとえば「A大尉」「X将校」また「××」ともしなかった事とも、大きな違いを感じる。あえて特定の個人に責任が集中してしまうことを避けるとても考えられた選択だったのではないか、と思う。「かれ」という抽象化された表現とすることによって、その「かれ」を、実際の当事者以外の日本軍の将校が誰でも当てはまってしまうような存在として描いたわけである。あるいは、少なくとも大江氏の意図とはそういうものではなかったか、と私は解釈する。
これは次のことからも言える。それは大江氏が「かれ」の心理内容について、かなり勝手に創作しているという事である。「かれ」についての記述のなかで「かれ」の夢想が数多く語られている。「かれ」という表現を使い、特定の個人から引き離し抽象的な存在とすることによって、そのような勝手を可能にしたわけである。
この「かれ」と例えば「A氏」とでは、表現として匿名度が全く違うと捉えることができるかどうか。曽野綾子氏も文学者であるのならば、大江氏が「かれ」という抽象的な表現をした事についてもっと考えてしかるべきだと思う。これはノンフィクションでもルポルタージュでもないのだ。私ていどの人間だって、「かれ」というこの文学的な、そして抽象度の高い表現にこめられた意図を感じうるのだから、同じ文学者として(モデル小説がどこまで許されるかという点で)大江氏擁護のほうにまわってもおかしくないのだ。そういう意味では曽野氏は自身が文学者であることを、ある点で捨てたのだろうと思う。捨てて一般市民(公共性の高い一般市民ではあるが)の名誉をとったのだろう。それもひとつの選択だろうとは思う。まったく共感しないが。
また曽野氏は大江氏をまるで神の視点をもっているかごとく批判しているようだが、大江氏は自分が神ではないという自覚があるからこそこのような書き方(「かれ」)をしたのだ、ともいえる。むしろ大江氏をピンポイントで攻撃する曽野氏のほうが「神」ではないかという気すらする。

「罪の巨塊(巨魁)」という表現

一部で曽野綾子氏の誤読が話題になっているが、「あまりにも巨きい罪の巨塊の前で、かれはなんとか正気で〜」という文章を普通に読めば、「〜の前で」という言葉で「罪の巨塊」と「かれ」がそれぞれ独立した客体として表現されていることは余りにも明らかである。つまり"「かれ」=「罪の巨塊」ではない"という大江氏の説明はまったく正しく、曽野氏は端的に間違っている。としか思えない。
ところで大江氏は「沖縄ノート」のなかで、こうも書く。「いや、それはそのようではなかったと、1945年の事実に立って反論する声は、実際誰もが沖縄でのそのような罪を忘れたがっている本土での、市民的日常生活においてかれに届かない。」
注意して欲しいのはここ。「誰もが沖縄でのそのような罪を忘れたがっている本土」という表現。これは、大江氏は本土が沖縄での罪を忘れようとしていることに異議を唱えている、と読める。言い換えれば、ここで大江氏が遠まわしにどういう事を主張しているかというと、本土は沖縄での罪を忘れるべきではない、と言っているのだ。つまり本土の側にも、少なくともそれを忘れるべきでない程度には罪がある、と言っているのだ。
大江氏が罪をひとり特定の個人に帰す意図がない事は、ここでも明らかではないか。いや明らかと言うには遠まわしすぎるかもしれないが、文学としてみれば、そういう解釈のほうが正しいと思うし、この点においても、曽野氏は自らが文学者であることを放棄しているのだと思う。ただ、さきほども言ったが、そういう選択肢もありだろうとは思うけども。

文学(者)に特権はあるか

上の項目で思いっきり大江健三郎氏を擁護してみた。そもそも大江氏が自らの罪をスルーして、ある個人、団体を貶めるだけのような著作を世に出すわけがないのだが、ただし、実はあくまでこれらは文学のなかで通用する論理であり、そのまま一般社会もこのように解釈すべきだ、とはならない、と思う。
文学的な意図をなるべく排除したうえで、「沖縄ノート」の例えば訴状該当部分を読めば、「自己弁護」などの言葉を用いていることなどからみても、巨きな罪のその大部分が「かれ」が負うべきものであり「かれ」は機会を捉えてそれを相対化しようとしている、というのが中心的な著者が言いたいことのように思う人がいて不思議ではない。
また、「かれ」と推測されかねない当事者の側が、「沖縄ノート」を果たしてきちんと読んでいるのかということも話題になっているようだが、当事者の側においては、その書物の全体の趣旨がどうであれ、部分的にここはすごく気になる嫌だという事もありうるだろう。
その部分的な読みの発端となったのが曽野氏の読みであるというのが、私からすれば大問題なのではあるが、ともあれ、曽野氏のような(あるいは池田信夫氏のような)文学的であろうとすることを捨てた者の読みを許容しかねないところに、モデル小説(実際にあった事件・人物を下敷きにして部分的に創作されたもの)の難しさがある。文学的な読みとしては、たとえば山崎行太郎氏の読みのほうが曽野氏よりもはるかに正しく、深いのだ。ただ悲しいながら、問われているのは文学的読み、センスではなく、一般的な高卒程度の国語能力なのだ、と思う。
大江氏は一から十まで物語を構築するような作家ではなく私小説的な作家ではあるし、「セブンティーン」「政治少年死す」などの作品もある(あるいはあった)作家である。この「沖縄ノート」についても、いくら「かれ」は抽象的とは言ってみても、渡嘉敷などの地名や渡嘉敷島に乗りこんでなどの出来事はそのまま出しているし、モデル小説的部分はのこっているのではないか。「かれ」がある人物を指しているという解釈は成り立つ余地があるのではないか。残念ながら。(そしてそういう解釈が成り立ってしまうとすれば、「沖縄ノート」問題は、あとは命令の有無など、事実としての蓋然性の問題になってしまい私の手に余る。)
これが、いわゆるモデル小説の問題とされたとき、大江氏はもはや磐石なところに立っているわけではない。小説だから、フィクションだからといって、どんな表現でも許されるわけではない、ということである。文学や文学者には、そんな特権はない
だから例えば、例に挙げて申し訳ないが、池田信夫氏、壊れる - シートン俗物記に見られるような言い方はちょっと楽観的に思う。
実際には、小説というのはフィクションなのかどうなのかというのが曖昧な作品が非常に多く、とくにモデル小説と言われるような分野については、これまでも何度か訴訟はなされ、フィクションであるあるいは「私小悦」という立派なジャンルである等の言い訳は(じっさいに一字一句このような言い訳をしたわけではなかろうが)通用せず敗訴したりしている。最近では柳美里氏の事例が有名であり、他には三島由紀夫高杉良清水一行などの小説家の作品の事例がすぐ検索できる。
Dr-Seton氏は『たぶん、「フィクション」を元に「訴訟」する人が居なかったからじゃないですか?』とおっしゃるが、「沖縄ノート」についていえばこれは完全なフィクションではなく、モデル小説的部分が見受けられるので、上記の理由で訴訟余地はあると思う。そして、その訴訟のなかではひとつひとつの表現について、きっと法廷では、皆真剣に「グダグダ」「ヤボな議論」をせざるをえないのだ、と思う。

さいごに

きっとはてなでは、命令の有無などより社会的な問題としての沖縄ノート問題への関心が強いのだろうが、より公共性の高い人物、事件に関するモデル小説の問題として、司法が今回はどこまで文学の味方をしてくれるかどうか、に強い関心をもったので、私もいろいろ書いてみた。
Dr-Seton氏についてはいつも氏の日記を愛読しているがゆえに、たまたま目に付いて、大江氏に楽観的な例の一つとして言及することになってしまったのを、氏に済まなく思う。