受動的であること

とりあえず人気のエントリーを読んでみたが、あまり面白くなかった。「好きを貫く」よりも、もっと気分よく生きる方法 - 分裂勘違い君劇場 by ふろむだ
面白くないし説得されにくいが、ただ、言ってることの本筋は正論だと思う。ポストモダン思想をある程度知らないと誤解されるかもしれないが。


好きなことを仕事にすることの問題点を、私はもっと簡単に書いてみようと思う。
大きな違いは、好きなことを行うということは能動的なできごとであり、仕事を行うということは受動的なできごとである、ということだ。
例えば、野球とかテニスが好きでそれなりに上手くてもっと練習すればという人が、大学なんかで大学公認の部で活動することを敢えて選ばず、同好会に入ってしまうような行為。私はそれが理解できるのである。好きで始めたことをやらされたくない、という気持ちが。
だから、好きだからそのままそれを仕事にできるという人はむしろ羨ましくあって、そこには好きであったはずのものが嫌いになってしまう恐怖さえ横たわってると思う。


ここでもうひとつ付け加えねばならないことがある。それは好きなことを行うということは能動的であるが、非常に多くの場合、好きなことというのは見つけるものではないという事だ。つまり好きというのは受動的なところから生じてくる場合が非常に多いし、そして、その「好き」のほうが、「自分探し」とやら何やら下らない掛け声で選ばれた「好き」よりも長続きするものではないか、とも思う。「自分」なんてものは幻想ゆえに、そこで自ら選んだものにはやがて耐えられなくなり、むしろ、選んだのではないものには何の責務の臭いもないだけに続くのではないか。半ば強制的にやらされたり、最初は付き合いだけのつもりだったりしたものこそが、強烈な「好き」を生んだりする。


まとめていうと。
すでに強烈な好きを持っていて、自分と同じくらい好きな人には滅多に出会ったこともなく、例えその行為が義務的なものになったとしても何も問題ないと思える人はその道を歩んでもいいだろう。そういう人は圧倒的に少ないし、仕事と言うのは多くはやらされるものだ、ということは強く押さえておくべきではないか、と思うけれども。
好きではあるが自分以上に好きな人は世の中に溢れてるなあとか思う人、あるいは、ほどほど好きなことはあってもコレという事が見つからない人は、どうしたらいいか。
思うに、「本当に好きなモノ」を見つけようとしたりとか「本当の自分は」何かとかそういう事はとりあえず有無を言わさず止めにして、今そこにある仕事がそれほどひどく苦痛に感じそうもないのならば、それをやってみたらどうか。
そういう半ば強制なところから、好きとか一生の仕事が生まれたりするかもしれない。大学時代、人付き合いが苦手だったような人間が営業でトップの成績を上げたりするから面白いのだ。


そしてこれはついでなのだが、じつは最もいいたいこと。
それは、仕事の面白いところは好きとか嫌いを超えたところで人を動かすところであり、そして、そうやって動かされて出来たものも、好きでやったものとは別の観点で、より面白いものとなる可能性があるのではないか、ということだ。
嫌々出したやっつけ仕事の企画が、かえって普通の人が考えつかないような面白いものとなったり、とか。
そういう「仕事」の特殊性、好きなことをやることとは違う側面、を思うとき、ウォーホールが「仕事」とか「工場」とか自分のまわりのことを名づけたのを思い出す。彼が名づけたのは恐らくまったく違う意味でだろうけれど。


いろいろ書いたがむろん、資本主義のもとでは多くの仕事は自己疎外的な「労働」であるということは忘れてはならない