仮説

はてブ経由でワーキング・プア3の内容を知って、昨日たまたま再放送を少し見た。
それについて直接思うことはまだ整理出来てないし出来るかどうかも分からないが、ブクマコメントで思い出されたことをちょっと書く。


それは、このような状況(大格差社会)で左翼は何をしているんだチャンスなのに、とか、なんでもっと左翼運動が盛り上がらないのだ、とかそういう意見について、である。


これが左翼に対する皮肉のつもりだとすれば、左翼が完全に退潮しちゃったときに弱いものをいじめているかのようで良い気持ちがしないのだが、まあここ数年左翼を皮肉ることが言論の流れでもあるし、そういう流れに乗っていて恥ずかしくないのだろうから、そういう皮肉屋のことなど別にどうでもよい。
ただ真剣に、今左翼運動が盛り上がっていいはずなのになぜだろう、と考えているとすれば、そこで、当然と思われることが前提とされていないのに少し驚く。


当然というのは、彼ら(貧困層)にとって左翼というのはアサヒであり労働組合でありアカデミズムであり、つまり「旧体制」の一翼であり、まさしく打倒すべき対象そのもの敵なのだ、という事。これでは左翼運動など盛り上がる筈もなかろう。そして、そこでは左翼的であることすら忌避される。
「左翼」という言葉が含むものは幅広いので詳しく書くと、アサヒや労働組合に代表される「社会民主主義」という意味での左翼的なものは、はっきりとした形ではないが、戦後社会の成立のなかで政策として取り込まれてきたと判断されているわけだ。そしてそれらこそが彼らを抑圧させているのだと思われている。「戦後民主主義」のイデオロギー=左翼イデオロギーとなっているのだ。
これはでも、当たっている面がある、と思う。小沢という壊し屋に対抗するために守りの側として、旧社会党自民党と容易に結びついた事など、象徴的である。旧社会党の考え方はずっと無視されていたようにみえて、じつは戦後を形作るものとして取り入れられてきたのだ。


このような「左翼」=分配的正義を重んじる社会民主主義を、近年いちばん攻撃してきたのが新自由主義と言われるテーゼであって、それを代表する小泉純一郎が(あるいは小沢一郎などが)、貧困層にも人気があった理由がよく分かる。
社会民主主義というものがそこでは共通の敵だったのだ。
共産主義者が、ほんらい考え方が近いのに、それゆえに危険だと感じた社会民主主義者を葬り去るために、一時的にファシストと共闘するかのような感じだ。これは詳しく知ってるわけではないが、昔実際にあったことだ。
よく似ているとまではいかないが、本来の敵を見誤って、一番戦うべき相手と手を結んでしまったところだけは一緒だ。