芸術作品と娯楽作品

いわゆるダウンロード違法化について、こことか読んでみたが、あまり説得されない。
私が説得されるのは、各論の部分で反対する議論(どこまでが「ダウンロード」か区別できないなど)だけで、ダウンロード違法化に総論的に反対したりするのがいまいち理解できない。ときに、極端と思えるデストピアを様々な形容詞を使って描いて見せてユーザーの危機感を煽るかのように思われるようなものすら見られるが、正直読むに耐えない。
でも総じて言うと冷静なユーザーが多いという気もしていて、つまりアップロードが違法ならばダウンロードが違法であってもおかしくないだろう、という総論的な部分では反対も少ないように見える。そもそもネット上であれば、現物の市場(違法ブランド、コピーCDなど)と違って、違法物であることを承知している同士の取引ならば、売り手も買い手も権利侵害の程度はそれほど変わらないように思われるのだ(現物市場では売り手の犯罪関与の度合いのほうが明らかに高い)。ネットでは、ときに買い手が売り手、売り手が買い手になることが比較的容易なのである。ならば、取締りを厳重にするにはアップロードもダウンロードも同時に取り締まろうとするのは、あくまで総論としてであるが、合理性があるように思われる。
違うだろうか。


もうひとつそのサイトを見て思ったこと−「アマチュアリズムの勃興」などの楽観的なネット有効論について。
何か動画アップロードサイトの動きを中心に、そういうアマチュアたちのこれまでの既存業界を超えた動きが、新たな市場創設・拡大や、また芸術の発展に寄与するかのような楽観的な論。
これらを私は、あまり信用していない。
というのは、今まで私たちが小説だの音楽だのに接するに際して、ユーザーと創造者との間の垣根、つまり既存業界のフィルターの役割があまりにも大きかったかというのを、わたしは痛感するからである。


CDのブックレットを見れば分かるように一枚のCDを作るに際して、実に様々な立場の人が関与している。プロデューサー、レコーディングエンジニアだけが重要視されるが彼らだって一人で全てをやることは稀だろう。また、宣伝担当や、ジャケット製作など、多岐にわたる。そして、そのCDの存在が我々に知れるためには、そのCDを取り上げるメディアがあって、またそこで働く人もたくさんいる。われわれは自分自身でなにもかも判断できるかのようで、じつは、そういうメディア無しに判断することなどほとんど出来ないはずだ。意識していないだけで。(レディオヘッドがああいう冒険ができたのも、レディオヘッドがそれまで築いたものがあってこそ注目されるわけである。)
そしてどこかの時点で商品としての最終決定、つまりその作品を商品として流通させるかどうかの最終決定がなされる。レコード会社等で。また、それを扱うメディアでもどういう内容でそのCDを取り上げるかの決定がどこかで行われる。
私は、この最終決定の性質こそが面白いと思うのだ。芸術が芸術のままで流通するのではなく、商品として変質されるところに面白さがある。こういうふうに産業のなかで商品として変質したことが、音楽や小説作品が大衆にここまで広がる原動力になったのではないか、とか思っているのだ。
普通、芸術至上主義ふうの考え方だと、アーティストが生み出すものがユーザーにそのまま伝わるのが一番良い接し方で、その間に何の意思も介在させない方が良いのではないかと思われがちだが、私はそうは思わない。
編集者が作家の書いたものを没にしたり修正を迫ったり、プロデューサーが曲順や採用曲決めたり、あるいは曲そのもののアレンジをミュージシャンの考えるのとは逆方向でアドバイスしたりという事があって、だからこそ生まれた色々なマジックがあったのではないか、とか思っているのだ。
なにより資本主義のもとでの商品化ということに関しては相当なシビアさが要求されるし、そういう自分の"表現欲求"とは別のところに厳然と存在する、あるいみドライなシビアさとの緊張感があってこそ芸術作品は面白くなるのだ、と思っているのだ。
流通が簡素化され、垣根が取り払われれば払われるほど、どんどん良い方向に進むなんて、全くそんなふうには思えないのだ。