イデオロギーフリーな人たち

南京事件の話題もApemanさんの所のコメント欄を除けばほぼ収束気味。
おもに自分自身のために今回のことで感じたことをメモしておく。


否定派の人には演繹的な論理を重視する人が多い
戦争になればある程度の虐殺は当たり前⇒南京でもそのくらいはあって当然というだけでしょ
大量に殺すには大量に殺す兵器が必要⇒日本軍は持っていなかったので無理
そんな大虐殺があればもっと報道されていたはず⇒あまり報道されていないのでナシ
この手のもので究極は、
日本には虐殺の文化はない⇒南京でもありえない
だろうか。


虐殺を認めざるを得なくなると、他の虐殺にも言及しろ、という人がまだいる。
これはいわゆる相対化論で、どこでもやってることだから殊更日本が悪いわけではないよの方向に持っていきたいのだろう。典型はチベット侵略と韓国のベトナム戦争
他にも原因として被害妄想的な心理が働いてるきらいがある。南京を認めてしまうと日本が世界中から非難を浴び、日本人は虐殺民族として烙印を押されてしまう、みたいな根拠のない心理。近年日本経済の世界における存在感が低下しつつあることと関係してるのかもしれない。


南京虐殺論争は左と右の懲りない面々が懲りずにやってるだけの話、と思ってる人が多い
たぶん貴方は右派ですか左派ですかと言われて、はっきりこちらと答える人は非常に少ないんじゃないかと思う。どっちでもない、と。自分は双方から等距離のところにいて、中立を保ってるイデオロギーフリーな人間である、というわけである。
およそ右派的な言説をとる者にしろ左派にしろ、わざわざ自分が偏向していると言う人間はあまりいないと思う。自分が正しいと思われることがたまたまリベラルな位置であったりコンサバであったりなんだ、という所だろう。
それに比べて中立の人たちは、中立であること自体が目的となっており、何が正しいかはあまり考えなくて済むので非常に楽である。世の中が右傾化すれば、自分の立ち位置をちょっと右寄りにずらすだけ。
なぜ、中立であること自体が目的となっており、と断定したかというと、正しさがその中身ではなく中立という外見によって担保されているからだ。左右から等距離で中立であれば正しいのだ。
これはもうすでに、そういうイデオロギーと化していると言っても良いだろう。しかも極めて主流な。中立とすぐに口にする人間−彼は、自分は偏向していないイデオロギーフリーな人間であり、何物の影響からも逃れうる、というような極めて近代的なイデオロギーに毒されている。
こういう状況は保守派にむしろ有利に働くケースが多く、これが左寄りの戦後教育の成果だとすれば、左派は自分で自分の首を締めたわけだが、むろん、実際には左派の教育に関しての影響力はほとんどなかったというのが実情だろう。(左派の意味を大きくとれば、成功しているのかもしれないが。)


同じ日本人を悪く言えない、と心理的に抵抗する人が稀にいる
これは、戦争の記憶が薄れることを危惧するという意味では、まるで真っ当に見える所がややこしい。
おじいちゃんは苦労して僕らを守ったんだぞ、忘れるなよ、というわけだ。私は、英霊だのなんだのこの手の心情には全く組しない。はっきり虚妄だと思う。
なぜなら、その苦労がもっとも直接伝わってた戦争の記憶が生々しかった当時には、僕らを守ったんだから仕方なかった罪はないんだ、ということは殆ど言われてないのに、今ごろになってそんな事が言われるのはオカシイからだ。
つまり、もっと関係が近かった父親や同世代の人たちが祖父の行為を(きっちりでもないけどそれほど文句もなく)裁いているのに、その孫が親愛の情から祖父を裁けないなんてオカシイのだ。遠ければ遠いほど裁かれる事、罪を言われる事に抵抗がないのが普通だろう。(豊臣秀吉朝鮮出兵を非難されて何か感じるだろうか。)
自分がしたことでもないのに他国に謝罪したくないと言う感情をなんとか正当化しようとして、勝手に親愛の情を作り上げているだけとしか思えない。もっとも本人は自分が勝手に作り上げたなんて自覚はないだろう。きっと本心から、おじいちゃんを守るとか考えているのだろう、その時点では。
しかし虚妄だけに、すぐ消えてなくなるのだ。昨年靖国参拝者が激減したのがその良い証拠。