印象批判を許すもの

文学に関連することばかり書くことになるが、今日はそれでも批判するなら読んでからのほうがいい - 見ろ!Zがゴミのようだ!およびhttp://soulfire.jugem.cc/を読んで強烈に自分のためにメモしたいと思う事があるので、書く。


印象批判をすべて除去して文学(作品)を語るのは、素人にとっては非常に難しいと思う。
いや玄人だって難しいと思う。文学賞の選評がその証拠。そこでは、玄人だってときに同じ作品に正反対の印象をうけたりしている。


文学作品の評価は、それぞれの人のなかでは、つまり主観的にははっきりしているが、主観的評価が中心となりやすいため、一般的、客観的には曖昧なものとなりやすい。
たとえば、現代国語のテストなどでも記述問題では答えがいく通りもあったりして、理系人間はついていけない。
こういう客観性の曖昧なところも、印象批判を許容するのに手を貸している。
なぜ主観的な評価が中心となりやすいかというと、そもそも文学という存在が、一般性や客観性を拒否するようなところがある。個別的であろうとし、また、一義的な意味付けを嫌う。
一義的な意味付けや、理論化ができるのであれば、人はそもそも小説など書かないだろう。


人は(とくに素人は)文学作品にたいして、何か新しい理論が提示されていると思って向かうことはない。哲学書や経済学の本とは違う。
どちらかというとその接し方は、音楽や、絵画に対するものに似ている。
そこでは、どう感じたか、が重要である。
共感できるような人物が描かれているか。夢中になれるような物語が描かれているか。


そういう素人が、印象深かった!共感できた!と語るのはまあいい。それで対立も起きないだろうし。
ダメ!共感できない!描きこみが足らない!無理がある!文章が気に入らない!などなど語るのを、それが印象批判だからといって、やめるべきだというのは少し酷な気がする。


結論的なことをいうと、せめてその作品を読んだ人に限っては、否定的にモノ申しても良いのではないか、と思う。
その人は一度は耳を傾けたのだ。いわば、コミュニケーションに向けて自分を開いたのである。否定的なものであっても受けたものはコミュニケーションの結果として書いていいと思う。
その場合に印象批評になってしまったとしても、素人にとって一番重要なのはそこだし、そもそも印象批判から文学評価を切離すのが難しいのは上に書いたとおり。


またこういう風にも言える。いやこちらの方が説得力あるか。
印象批判やそれに類するような批判は、その作品を読んだ者にのみ許される行為ではないか、と
印象批判という誠に身勝手なことをこちらはするのだから、せめてその本を読むという義理は通すべきである。
あるいは公平に負担するという観点からいえば、作者にたいして印象で評価するという負担をかけるのだから、ただかけるのみでは不公平で、自らもその本を購入するなり自らの自由な時間を削って理解しようと悪戦苦闘するなりの負担をすべきなのだ。


(※「義理」という言葉を使ったことから分かって欲しいのだが、私はこれをルールとすべきとまでは言わない。)




ところでさきほど、文学作品への接し方は、音楽や絵画に対するものに似ていると書いた。
(目をふさいで)絵画を見ずに画家を批判したり、(耳をふさいで)音を聞かずにミュージッシャンを批判したり、というのはあまり見ない光景である。
あまり見ないということは、それは非常識であるということである。


また常識かどうかを意識しないまでもなく、作品を受取ることなく批判するというのが音楽や絵画などの分野では、あまりにも乱暴で醜悪な所作だというのは、少し想起すれば分かる。
それと似たようなことが、文学の分野では許容しても良いとするなら、その理由とはなんなのだろう。