あるすれ違いについて

成功者が成功体験を語ると、次のような対立が様々な言葉で変奏される。

  一握りの優れた人の体験を大勢に当てはめることはできない。
   VS
  大勢の平凡な人の体験をもって一つの可能性を閉じていいのか

例えば簡単に変奏するとこんなふうになる。

  自分が出来たからって誰もができるとは限らないだろ。
  ポジティブ教だ。
  自己責任論だ。
   VS
  最初から出来ないとなぜ分かる。やってみなきゃ分からない。
  負け犬根性。
  社会に悪を押し付けてる。無責任。

これらは一見対立しているように見えるが、基本的にあまり噛み合うものではない。
なぜなら、一方は人生論・処世訓を語っていて、一方は社会政策、労働政策を語っているからである。


例えば

報われるのをただ待ち続けて、待ちぼうけを食らった事を嘆いても、何も起きない。それを街角で叫んでも、せいぜい空き缶の小銭が増えるだけ、(略)待ちぼうけがいやなら、待っていてはいけない。(略)
from404 Blog Not Found:小市民の敵は、小市民

というのはどうみても単なる処世訓。こういう事を書く人が同時にセーフティネットを社会政策として支持するのは私はそれほど驚かない。
誰にどこに処世的責任があろうと、社会政策として弱者は切り捨てるべきではないのは当たり前で、それとこれとは話は別なのだ。
(そもそも、元々の問題は、さらりとdankogai氏が書いているが、空き缶の小銭が増えるのかどうかなのだ。生きていくのに必要な分だけそう簡単には増えないよと言って社会政策上の問題提起をしているのに、ただ増えるだけ、と処世訓で返されてしまった。ホントに増えるの?それは生きていくのに必要な分なのという肝心な所がスルー。)


情報が多くの人に開かれるにしたがって情報間格差がなくなり、隙間(ニッチ)があちこちで徐々に埋められ、成功する人はますます限られることに、現代という時代がなってはいやしないか。従来、成功は多くの人に開かれているが成功する人はごくわずか、だったものが、もはや最初から成功は限られたものにしか開かれてない、に変わってきているのではないか。
とか思うのだけど、それは根拠があるわけでもないので、かりに成功はまだ多くの人に開かれるとしてもいい。にしたって、けっきょく成功するのは一部の人間だけ、というのは変わらないだろう。
だからこそ、私の言うことを聞いて努力すれば誰もが成功できるというような臭いを振り撒いたりしがちな処世訓にはモノを言いたくなるのだが、そこにおいて肝要なのは、話を社会政策に引き戻す事だ。
「それでうまく行く人もいるかもしないけど全員ではない。先ずはその他大勢について話しましょう」と。
ヘタに処世訓の内部で、心構え的な話をしたところで余り意味がないと思うのだ。それは次項で詳しく。