運に還元しない事

運の良さを噛み締めて - good2ndを読んで私は違和感を抱いた。ブクマにも書いたが話を運にもっていってしまうと、運が良ければまたなんとかなるだろうという事になりがちだし、運が悪いものに対して冷淡になりがちだ。
今、持てるものとそうでない者の差が運によってもたらされた部分は確かに大きいと思う。就職氷河期世代とそうでないものはもちろん、極端な話、アフガニスタンに生まれたものと日本に生まれたものとの差は運以外の何物でもない。そこでは同じ処世訓では語れないし、運という要素無しには語れないだろう。
とはいえ、運を語る気が無い者に運という要素を入れることを要求したところで何が変わるのか。ただ、成功者の傲慢という側面が消え、その他の非成功者に彼の話が受け入れられやすくなるだけの話ではないのか。


じっさい、成功者はけっこう言われなくても運について語っているものだ

『でも僕もやっぱり運が良かったんですね。みんなポジティブな素晴らしい仲間たちに囲まれて、ポジティブか能天気かわかんないけど(笑)ホント素晴らしい中間達に囲まれて、“運が良かったから”今に至ってると思ってますね。』グローバルメディアオンライン熊谷社長
『実は、20年ぐらいずっと運の研究をしてきたんですよ。人間はだいたい80%の運と、20%の努力だと思うんです。』林原グループ林原社長
『さて、ワタミフードサービスは客観的に成功していると思われていますが、私はその理由として、「運がよかった」とひとことで答えています。』ワタミ渡邉社長
『自分で言うのもなんだけれど、よく「天気男だ」と言われます。つまり、「ここぞというときには必ず天気になる」と。確かにそんなところもありまして、私は運がいいんだと思っているのですけれど。』森ビル森社長
『(求める人物像について)あと「自分は運がいいと思っている人」に来てほしい。運はうつりますから。』ぱど倉橋社長

だからgood2nd氏の話は、どこにもいそうもない仮想敵に向けられたものなのだ。
旧左翼の描く絵によくありがちな腹黒い経営者などどこにもいないのに問題があるというのが問題なのだ。倫理的にも非の打ち所の無い資本家や経営者が、苛酷な労働を強いてしまうという構造の問題であって、それはイコール良心的な成功者が苛酷な自己責任論を説いてしまうことでもあり、経営者の、成功者の倫理を正せばよいというものでもない。
私の成功は運によってもたらされたものですと考えるかどうか、成功者の良心の有無など詰問しても仕方ない。良心の有無に関わらず、運や努力の成果はいずれある程度平準化されなければ済まなくなるのだから。


もう一度繰り返すと、自己責任を強いるような処世訓に会ったときに処世訓の内部で話をしても仕方がないのだ。そこでヘタに話をすると、fromdusktildawn氏のコメント「自分の成功が自分の努力のおかげであって運ではないと思っている成功者など、見たことも聞いたこともないけどね」に負けてしまう。ただ、それは分かったから社会政策の話をしようよ、でいいのだ。弱者を切り捨てちゃったらひいては強者の富も目減りしちゃうよ、底辺をちゃんと生き生きとさせてこそ活力ある競争社会が生まれるんじゃないの、と。