良薬口に苦し

■なぜネガコメばかりに見えるのか

定期的に否定的なブクマコメ(ネガコメ)にムキになる人が現れたりする。そして決まって言うのが「ネガコメばかりしている人に限ってブログがつまらない、書いてない」だ。
だから何なんだろう、と思う。ネガコメばかりしている人が面白いブログを自ら書かねばならない理由など、何一つ私には思いつかない。そういう行為をしている人は尊敬されない、省みられない? 別にそれでいいではないか。尊敬されないリスクは他でもない、ネガコメばかりしている人が背負うのだから、いらぬおせっかいだろう。
そもそもコメントがネガコメばかりに見えてしまうという事じたいが、特段なんの不思議なところのない無理もない現象である。ここに底の浅い近視眼的な誤解があると、ネガコメ批判となってしまう。
当該記事に賛意を示す場合と批判を示す場合とでは、ブクマの仕方が違うだろう。賛意を示す場合はコメントそのものは無くなりがちだ。タグで処理するか、いちいちブクマしない人だっているだろう。とくに全面的に同意する場合などは、付け加えることがないくらい賛成であるわけで、つまり賛同であればあるほどコメントは無くなるのが普通ではないか。
一方、批判する場合はどうか。批判するということは無視とは違うものだ。何がどのように間違っているのかを言葉にすることが批判なのである。批判したくなればなるほど言葉は出てくるものだ。(あきれて言葉も無い、という場合もあるが。)
批判的であればあるほど何か言いたくなるし、賛成であればあるほど特に言いたいことがなくなる。全く普通のことではないか。かくして、ブクマ上のコメントは批判が並び、その記事に対するリアクションは否定的なものが多い、といった印象を形作る。表面しか見えない人はこれをそのまま受取り、ネガコメ批判になったりする。
こう考えてみると、ネガコメばかりしている人間はネガティヴで物事に積極的に賛意を示すことの出来ない人間である、というのもまた、表面しか見ていない非常に底の浅い見方であることが分かる。ネガコメばかりの人の賛意はたんに見えないだけである。無いわけではない。
そしてそれを見せなくてはならない理由も別にない。

ブログを書かない人はコメントできないか

次に「ネガコメばかりしている人に限ってブログがつまらない、書いてない」という言い草について。
これはそんなに底の浅いものでもない。表現というものがあるかぎり付いて回るもので、古典的な、幾度となく繰り返されてきた文句である。そんなにオレの表現がダメだというのならお前がやって見せろ、という奴である。
冷静に考えると、この考えをもし認めれば、音楽とか絵画とか熟練度合いが大きいものについては、ほとんど誰も何も言えなくなってしまうわけで、それだけでこの考えがちょっとおかしい、となるのだが、一方表現者の気持ちが分からないでもない。
似たようなことでいえば、私だってそういう考え方をする事がある。前にこういう事を書いたことがある。

 「ボクサーたるものロープを背負ってもひるまず隙をさがせ」
 というのはマービン・ハグラーが言うのなら何も文句はない。
 けど4回戦で早くも負け数が上回ってしまうような人が言ったらどうか?

また、文学など少しも理解しようとしない奴が柳美里の文章にあれこれ言うのを咎めたこともある。ようするに一定程度の水準で「出来る」人でなければ、批判もすべきではない、と考えてしまうことがしばしばある。
だがそれでも、面白い共感できるブログを書けない人はネガコメもするべきではない、という考えには賛成できない。これは分野によって違うのではないか、と今は考えている。そしてその違いを決定付けるのは、受け手のその表現(or活動)における存在の度合いの強さではないか、と。
例えば絵画とかだと受け手の趣向を意に介さない孤高の人とかいて微妙だが、ロックやジャズなどの大衆音楽とか文学(小説)などは、受け手がいてはじめて成り立つようなところがある。したがって、そういう分野では、「出来ない」者が積極的に発言してクリエイトの場とは別に批評の場があっても良いだろうし、「出来ない」者の見方感じ方が、表現者に何らかの作用をもたらすことも多い。(必ずしも良い方向に作用するばかりではないにせよ。)
それに比べて、マンセルを速く走れせたのはハグラーを強くしたのは受け手だろうか、と考えるとその応援やカネが間接的に作用することはあっても、彼らがずぶの素人のアドバイスで強くなったとは思えない。「出来ない」人がモノを言っても説得力がないだろう。
ブログの世界はどうか。これこそまさしく受け手がいなければ存在する意味すらない分野である。どこかで誰かが読んでくれると思うからブログを公開してるのだ、たいていの人は。カウンターが一日5しか増えないのであれば、そのうちその人は更新するの止めるだろうし、アクセスが一日200とか300とかになれば、書く内容すら自然と変わってくるだろう。だから、とことん受け手がモノを言っていい世界だし、どこかで誰かが読んでくれると思って公開したのなら、ネガティブなものも甘受すべきなのである。
またそれ以上に、むしろネガティブなものを求めるべきなのだ。自分の意に添うように読んでくれる人だけに向けてブログを公開するとしたら、その行為はなんと意味のないことだ、と思う。私もときどき主に自分の考えを確認したいがために書くことがあるが、私のことを分かってくれる人だけのためになんて気持ちの悪い事を思って書いたことはない。
ポパーの職業倫理を思い出す。

 われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、感謝の念をもって受け入れることを学ばねばならない。
 誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。
 (ごく一部分抜粋。たぶん小笠原誠さん訳)

これは学問の世界の事ではあるが全く言えてると思う。私が信頼しているブロガーの方々も皆、自分への批判、しかもブコメの100文字批判ごときに何を偉そうになどとイライラしていないし、もちろんネガコメを問題化したエントリなど書いていない。

これを書くにあたって

今日のエントリは、ある人のエントリがきっかけとなって書いたものですが、id:takoponsさんに倣ってTBは送りません。
もっとも私の動機は、相変わらず私の書くことは面白くないという事に加え、ポパーなど引用してしまって説教めいて見えるかもしれないからなのですが。