山下洋輔の炎上演奏について

http://d.hatena.ne.jp/umikaji/20080310/1205159249を読ませていただいた。
今日はその感想を書こうと思う。批判のような擁護のような微妙な感じになると思う。


山下洋輔というピアニストがピアノを燃やしつつ演奏した。その事に対する批判がまずあって(燃やす必要あったの?etc)、その前衛芸術批判をさらにブクマで批判する人がいて(PTA)、それを更にumikajiさんが批判した、という流れである。
参考:はてなブックマーク - 防火服で炎上ピアノ演奏、ジャズピアニスト山下洋輔さんが熱演 - MSN産経ニュース

■前衛芸術は皆が認めるべきか

結論からいうと、そんな事はないだろう。山下の演奏を認めない人が居ていいはずである。
したがって、多様な価値観の存在を擁護する立場からすれば、山下の演奏を認めない人を「認めない」のは問題だ、という事になる。おそらくumikajiさんの問題意識はここに存在するのではないか。たしかにブコメのなかには前衛だから擁護すべきとみえる意見があることはたしかで、前衛であることまた芸術であることをもって直ちに肯定し、認めない者にたいして否定的に当たっているとすれば、それは良くないように思われる。
まず、終局的にはこの両者が共存することはあり得ない事だけは押さえておくべきだろう。片方が意見が認められれば片方の意見は排除される関係にある。いずれどちらかが我慢しなければならない。演奏を止めてピアノを守るか、ピアノを諦めて演奏を守るしかなく、中間点はない。
そしてここで取るべき手段は言論しかないと思われる。消極的支持ももちろん含め、どちらが多数となるか・・・。とすると、『山下の演奏を認めない人を「認めない」』という行為が問題となりそうではある。ピアノを守れという言論が予め封殺されてしまえば多数を形成することはできないからだ。
で、「PTA」って揶揄することは言論を封殺している事になるのだろうか。
私は、そうは思わない。個人の感想を言うこと(ピアノがかわいそうetc)は自由なことは勿論だが、だからといって、その感想を揶揄することまでも禁じられる、というのはどうかと思う。これこそ、多様な価値観というお題目のもとで行われる言論の封殺(とまではいかなくてもそれに近いもの)ではないか、と考える。
「PTA」という揶揄は文字通り「揶揄」であって、その発言を禁ずるものでも、その発言者の人格を否定するものでもない。排斥というのも大げさではないだろうか。『山下の演奏を認めない人を「認めない」』人ははてなのサポートを通じて、山下批判を消そうとした訳ではないだろう。以前にある人が多様な価値観の名のもとにラッセンを好きな人の感覚を云々しないのはどうか、と言っていたが、同感である。多様な価値観は少なくとも言論のうえではぶつかっていい筈で、何の干渉もすべきではないというのはあまりに窮屈だ。そんなに私たちはお互いの価値観について相互不干渉でいいのだろうか。私は今のJPOPとやらの「みんな生きているのさ、頑張っていこう」みたいなものを素直に受け入れる事のできる感覚はどうかしてるぜ、とやっぱ言ってみたいし、ミュージシャンに対しては、何悟ったような事いってんの?人生の伝道師かお前は、とか言ってみたいのだ。そうやって、お互いがぶつけあうなかで価値観自体が劇的に変わらなくても微妙に変化することもあるのではないか。
「ピアノがかわいそう、とは何てヤボな言い方!」と言われて、揶揄を止めよお互いを尊重せよ、と返していてはいつまでもピアノは燃やされるだろう。それでいいならいい。本当にピアノを燃やされたくなければ、「前衛だからって何でも認めるなんて、今時芸術至上主義ですか?なんて古臭い感覚!」等々言って相手の感覚を揶揄し返せばいい、と私は思う。何かを言論によって変えていこうとすれば、それなりのネガティブな反応を返されるのは当たり前だ、くらいに思っていた方がいい。

■個人のなかで否定肯定は共存できるか

次にこの記述に引っかかった。

そもそも、前衛芸術なんて批判されてなんぼだろう。

前衛芸術の表現に対する批判を叩いている人は、前衛芸術を守っている気にでもなっているのだろうか。前衛芸術は、誰かに守られる必要なんてない。批判をものともせず突き進むのが前衛芸術だろう。

いっけん説得力はあるのだが、私は混乱してしまう。山下のピアノ演奏を認めるか否かの話が、前衛芸術一般の話に変わってしまっていて、むしろ前衛芸術を認めているのはumikajiさんや他の山下批判者であるかのように見えるからだ。(そして山下賛美者の方が、山下批判者を批判することによって前衛を前衛たらしめない結果にしようとしているふうにも。)
これは、umikajiさんとしては、前衛芸術だからという理由でなんでも認めようとするような一般論への対抗として一般論を出したと思うのだけど、ちょっと心地が悪い。
個人のなかでその存在を認めないものを、一般論では認めるなんてことがありうるのだろうか。umikajiさんの書き方では、前衛芸術の批判者は、認めない事をもって認める、という事をしているのだ、と読めなくもない。そんなアクロバティックな事は成り立たない。ピアノを燃やすべきでないと批判しつつ、一般論としてはピアノを燃やしても構わない、なんて事はないだろう。ピアノをこれから燃やしたいと思ってる人はどうしたら良いのか。燃やして良いのか良くないのか?
例えば、「キリスト教は迫害されることによって広まる宗教だろう」と言いながら迫害する人がいたらどうだろうか。私はそういう人はキリスト教の事を本当に考えるのであれば迫害を止めるべきだし、ただ迫害したいのであればさもキリスト教の事を考えているかのような偽りの言動を止めるべきだと思う。(他の例としては共産主義社会が成立した場合、労働者を迫害した資本家の方が偉い、という事にもなってしまう。)
極端な例だったかもしれないが、前衛芸術に対する批判もまた「ものともせず突き進」ませたくないからこそ批判するのではないか。だとしたら、前衛芸術がもしものともせず突き進んでしまった場合は、批判者の目的は果たせていないのだから、結果として突き進んだことをもって批判者の方が育てた、みたいな言い方は潔くないと思う。前衛芸術が否定されれば批判者は目的を達することが出来るし、前衛芸術が突き進めば批判者の批判は("批判されてこそ前衛"などというかたちで)正当化される。どう転んだって批判者の立場が正当化されるのであれば、常に批判していれば良いという無責任な事になってしまう。
昔次のような言葉を聞いたことがあるのを思い出す。「ヘーゲル/マルクス主義者の言うように共産主義社会が訪れるのが歴史の必然だとしたらわれわれは何もしなくて良いんじゃないの、どうせ必ず訪れるんでしょ」それに対する批判はどういうものであったかは忘れた。とりあえず順序が逆という批判が成り立つ気がしていて、個々の事象から全体を導き出して語るのは構わないが、その導き出した全体から個々の事象を再規定してしまうと、個々がの事象がまた変化してしまうのだから全体を再度導き出さねばならなくなり、堂々めぐりとなってしまう、と思う。

■受け入れられないのは当然か

前衛芸術というのは、すべてがそうかは分からないが、既存の一般的な芸術に対するアンチを含んでいる。
一般的という事は抵抗無く受け入れられているという事であり、それに対するアンチであれば受け入れられない事は当然覚悟である。ただ、受け入れられないことを覚悟することと、受け入れられないことを目的とすること=不快さを計算に入れることは違うと思う。すべての前衛芸術が不快さを目指しているという事はないのではないか。
現に山下洋輔のピアノは、少なくともWEB上では受け入れる人が多い。これだけ人が受け入れてしまうものに対して、いやあれは不快さを目指しているのだから不快に思うほうが正しい、と言うのは無理があると思う。もちろん不快に思うのは構わないが、もはやそれぞれの感覚の問題にすぎず、どちらの感覚が正しいかは分からないないという事である。
オーネットコールマンが登場したとき前衛と呼ばれたが、彼は初期のアルバムに"The Shape Of Jazz To Come "と名づけている。今は受け入れられないかもしれないが、いずれこの形が来る、としているのだ。これが不快さを目的としているだろうか。こういう前衛もけっこうあると思うのだ。そこで、受け入れられないのは当然、と自らの不快感を正当化してしまう事はあまり正しいとは思えない。
ただし、私はあまり知らないが、常に前衛であることを目標としている人はいるかもしれない。そういう人の作品が常に不快なものである可能性はある。だが、前衛と呼ばれていたころから、それが受け入れられた後もスタイルをそれほど変えない人もいる。受け入れられた後もスタイルを変えないという事は、それはつまり受け手が時の流れと共に不快→快に変わってもスタイルを変えないという事で、ならば最初から、自分の作品が不快かどうかという事はあまり念頭になかった可能性もある。つまり自分の信じる良さのみを見てそれに近づこう近づこうとして作品を作ってきたのではないか、と。
芸術的価値よりも売れることの価値を上に持ってくるタイプの音楽も好きだが、こういう受け手を余り考えないタイプの人がやる音楽でときに素晴らしいものがあったりするから音楽は面白い。