児童ポルノ−ある疑問点
■間抜けなブコメをしてしまった件
http://d.hatena.ne.jp/araignet/20080316/1205667464を読んでブコメしたのだが、記事を全く読み取れていなかったのが恥ずかしい。その事に気づいたのは、araignetさんが新たに追加されたコメントだった。
どこまでがセーフなのか明らかにされて、大衆が「あ、そういうのなら規制された方がいいよね、どうせ自分には関係ないし」って認めだしたら、もうアウトなんですよ。
なるほど。
要するに、"ドラえもんや宮崎アニメも規制されちゃうよ"と非オタの人まで範囲を広げて訴えかけた場合において、それに対して規制側に"いやそこまではしないんで安心してください"と言われたら、その時点で論拠を失ったような状態になってしまうという事だ。
そして、いったん規制が法として成立した場合は、基準(=一度は出されたはずの現実的な線)がいつもでも変化しないという事はないだろうし、そこで行き過ぎた規制が発生したからといって、再び論議して法律を元に戻すというのは、今この法律を阻止することよりも遥かに労力がかかりそうな気がする。
■ポルノ一般にまで論議が拡大?
こういう誤読をしてしまう阿呆な私は、しかし恥を偲んで、そして的外れでないことを祈りつつ、araignetさんが次のように書かれたことにちょっとした疑問を表明したい。
恐らく女性たちの本音を探れば、彼女たちは鬼畜ロリの排除をロリの排除に拡大したいと願うよりも、年齢に関係なく鬼畜表現の排除に拡大したい、というところだと思う。ところが日本の猥褻物規制は、鬼畜表現の排除を指向していないので、強制力のある児童ポルノ禁止法を使って、ロリにおける鬼畜表現から消滅させたい、というのが本当のところなのではないだろうか。だから、児ポ法に伴う御題目は形式上のものであって、そもそも問題はペドフィリアにない可能性すらある。
もちろん、年齢に関係なく鬼畜表現の排除に拡大したい、という人はいるだろう。日本でも、反ポルノ運動みたいなものも存在しているだろう。しかし彼(彼女)らがいきなりマイクロソフトやヤフーを動かすほどの力を持ちえたとは思えないのだ。その中心は違うものなのではないか。
『「女性一般」への恐怖』を彼ら(規制派)の論拠として措定してしまうと、話はポルノ一般にまで拡大せざるを得ない。そうするとやはり表現の自由という観点からの反論が当然なされてくるし、それは真っ当なものだったりして、どうも中心からそれた所でやりあって(そして終わって)るような気がする。
また、例えばこれはaraignetさんの論によって触発されたものではないのだが、男性が陵辱されている映像の存在を持ち出して誰もが欲望の対象たりうるとして、すべてを欲望一般に等値したうえで相対化し、ひいては個人の欲望を擁護する人までいる。これはこれで自由主義社会の法律論としては真っ当なのだが、ここまでくると、明らかにどうもハズしてないか、と思ってしまう。
象徴的にいえば、シーファー駐日米大使が鳩山法相に要請したのは、児童ポルノに対する日本の法規制強化であって、ポルノ一般とか同性愛映像の話なんて一言も出てない(筈な)のだ。そして自民党が、アニメやゲームで国を活性化したいという議員を抱えていながら、この問題で動かざるをえないのは、そういう外圧が強烈に存在するという事だろう。(本当は差別問題に本腰を入れたくなくても人権擁護法案を日程に載せようとせざるを得ないのによく似ている。)
中心はココではないか。そして、そこにどんなメンタリティがあるのかをしっかり把握するのが、先ではないか、という気がする。
■中心にある「非対称」
ポルノ問題を語るときには男女の非対称はよく語られることだ。私はレディコミはなぜレイプOKなの?と疑義を呈してたりしたが、女性の欲望は弱者の欲望としてきっと肯定されてしまうのだろう。(注:これもある意味差別だ、という指摘はある)
しかし話は、ポルノ一般でないのではないか、という事だ。
今おそらく問題になっているのは、もっと深刻な「非対称」なのだろう。児童対成人の。子供対大人の。そしてこのような非対称は当然放置できない。
つまり一方は、それが良い事なのか悪いことなのかも区別もつかないし、恐怖することもないから、逃避することもない。ここでベースとなっているのは、(女児の男児の)「恐怖」ではなく、「恐怖することすらしない」なのではないか。
つまり、女児や男児は主体として考えられていないのだろう。欲望の対象としてはあまりにも一方通行なのである。男性→女性にあっては、欲望→受入とともに欲望←拒否という方向が(完全でないにしろ)ありうる。(同性愛など完璧な双方向だから、近年欧米で同性愛が市民権をより得ているのは納得がいく。)
男性→女児にあっては、欲望⇒受入しかない。そしてこの非対称は、例えば視線においても存在する。
成人男性がいくら成人女性を情愛の眼で見ようと、成人女性は目を合わせぬか、睨み返すことができる。女児の場合は、そのような拒否ができない。というか拒否する主体として捉えられていないし、主体として捉えられていないからこそ、情愛の視線を受け入れることも偽りであり、それは「受け入れ」ですらない。
視線すらこのようにして許されないとすれば、内心すら許されないとしたところでそれほど遠くないのではないか。つまり彼らは児童が欲望の対象となることを、どこまでも拒否しているのではないか。もしかしたら、そのような欲望を抱くこと自体を犯罪的と考えているかもしれない。
大人に対して自己責任で厳しい分、責任主体たりえないモノは徹底して守る、という事だろうか。そういう近代主義の徹底に由来するのか、それともキリスト教メンタリティに由来するのか。
■表現規制の中心にあるもの
表現物まで規制するとした理由については、おそらくその「少女」は本当にいないのか? - OAFの考察が正しい。オタク差別は結果でしかなく、彼ら(規制派)は、社会に流通するコンテクスト自体を変えようとしている。分かりやすくいえば、児童性愛を更に徹底してタブー化しようとしている。
たとえば同性愛がタブーであれば、同性愛を暗示するような表現物を持っていただけで、彼は身内で飛び切りの噂の対象となり、その行動はつねに目立ち見張られ、どんな些細な異常行動であってもすべて同性愛に関連付けられてしまう。同様にして、あらゆる児童性愛の発現の機会をおそらく摘み取ろうという意図なのだ。
そして、これに対してゾーニングは有効な手段だろうか。ゾーニングということは、社会に適切な場を設けるということだろう。もし欲望を抱くこと自体犯罪的と彼らが考えているとしたら、犯罪者集団に社会が適切な場をもうけているという事であり、また一つの文化として認めているという事であり、ちょっと受け入れられないだろう。犯罪者集団とすら彼らが見ているようでは、逆に、なぜ摘発しないのか、とか言われたりしかねない。例え見えなくても、そんなゾーンがある事自体、徹底して守ることにとって障害たりうる。築いてもいないうちから諦めるのは早いとは分かっているのだが。
アメリカのTVドラマとか見ていると、児童性愛や虐待に対する憤りが並々ではないのに驚く。そういう欲望を持っているものは人間扱いされない感じだ。ジョージ・クルーニーがERで人気を得たのも常に子供の味方であるそのキャラが、より以上に好感度を生んだのかもしれない。"The Shield"というインモラルな刑事の内部対立が中心のドラマでも、犯罪対象が未成年となると、皆一致団結して怒りまくるのだ。犯人を逮捕しても尚、未然に防げなかったことに涙を流して悔しがる。きっと彼らが、児童性愛を描いた表現物を見たら、オイ誰だこんなの書いてるのは、となってもおかしくないくらいの激しさだ。
あれを見せられると文化の違いを理由にしたくなるが、すでにクジライルカで野蛮と言われているのにこれ以上野蛮な文化と思われても難儀である。インターネットは表現分野の流通に便利なようで、かようにメンタリティの均質化まで迫るものになるとは皮肉である。
"表現規制をしても犯罪行為は摘み取れないのに、文化のなかのある部分を確実に摘み取ってしまう"これはまったく正しいと思う。ただ、規制しても犯罪は減らないだけでなく、規制しなくても犯罪は減ったくらいでないと、あんな相手には説得力がないようなそんな危惧を抱いたりもする。正しいことは(どこまでもとは言わない決定的な対立をしない限りにおいて)突っ張るべきと思うのだが、数においても力においても劣勢なのが現実かもしれない。