子供の位置付けがそもそも違いすぎる-児ポ問題

月曜日に録画したhttp://www.wowow.co.jp/drama/unit/を昨日見たのだが、なんでこんな下らないもの見てるのと言われそうだが、先日書いたことがそのまま実感できるような内容だった。
米軍特殊部隊の人間が非公式任務として(他国内の)中東系のテロリストのアジトを爆破しちゃうのだが、いざ着弾する寸前になって5才くらいの子供が目標物に! すると特殊部隊の一人は危険を顧みず、子供を救うために必死のダイブである。
と書いてしまうととくになんの感想もないかもしれないが、実際の映像とかみると状況的にちょっとあり得ない感じである。しかしこれが向こうでは普通の当たり前の感じだというくらい、ほんとに似たようなシーンは沢山あるのだ。アメリカだけでなくドイツ製作のドラマでも子供一人のために大怪我負ったシーンがあったが、日本のドラマを全然見ない私は分からない。日本でもこんな感じだったっか?子供の扱われ方。
今思い出したのだが、ザ・ユニットなんかより全然有名なドラマ、CSIマイアミの主人公刑事なんかも何なんだこの人と思えるくらい子供好きに見える。被害者の子供だろうが加害者の子供だろうが、とにかく救って救って救いまくるのだ。


あくまで仮定の話だが、彼我では、もはや子供に対する位置付けというか思想が違いすぎるのではないか。彼我とは西欧人日本人のことなのだが、児童ポルノ問題では規制側・被規制側という事になる。
この思想の違いをそのままにして、制度をそのまま押し付けられたら軋轢が起るのは当然ではないだろうか。


また、いつも愛読させて頂いているbuyobuyoさんが、「そもそも問題となった児童ポルノというものは、児童に対する性的な虐待行為の記録そのもののことだ。」と書かれていたが、その事に関連して大江健三郎の最新作を思い出した。
記憶で書くので正確ではないかもしれないが、その本のなかで、児童虐待に遭っていた女性が描かれているのだが、彼女は自分がそのような目に遭っていたことをハッキリとは覚えていない。もしかしたら汚らわしい事をされたのかもしれない感触のようなものは残っている。そのときの行為が動画フィルムの一部分として残っているのだが、成人になって中年も過ぎ、それを見ても平気かもしれないと思ったのか、連れ合いの男性がそのフィルムを手に入れ彼女に見せてしまう。彼女は人格が破壊されてしまう。
最近の日本の作家は余りそういうところが前面に出てこないが、大江氏の年代がそうだし、大江自身も海外の文学の同行を熱心にフォローする方ではないかと思う。そういう彼が、こういう虐待を描いたことは、やはりそういうものに敏感な海外の思潮と無関係ではないと思われるのだが。


さらに思ったのが、この女性の心情である。この"取り返しのつかなさ"は、きちんと人格が形成されたあとに起った出来事の"取り返しのつかなさ"とは別物ではないか、と思う。
後者であれば別のやり方があったとか思えるし、これからは同じ轍を踏まないようにしようとか考えたりできるが、人格形成前に起ったことについては反省のしようが無いのだ。
人格形成前の出来事だから傷がなくなる訳ではないし、いくら人格形成前だからといって、拒否しなかった無邪気な自分がそこにいるという事は耐えられるものではないだろう。自己の連続性というのはどうしてもついてまわるだろう。
成人になって普通の分別のもとで生活していたある日、自分がそんな事をされていた(orやっていた)事が明るみになったとき、あるいは自分がやっていた事の意味が分かったとき、それは自分の責任外から、しかし自分のものとして突然やってくるのだ。これもまた恐怖だろう。
先日は、児童ポルノの被害者について考えるとき問題にすべきなのは、その「恐怖」ではなく「恐怖すらできないこと」ではないか、と書いた。しかし成人になってから襲うこの恐怖も、やはり人格権を大事にする自由社会では無視できない恐怖ではないか、とか思う。ある日自分の人格が自分の責任外のところから台無しにされてしまうという恐怖。