誠実さや信頼を求めるべきなのか

今回のチベット問題に関する「左派の失策」は素直に認めてもいいんじゃないかなー。 - 想像力はベッドルームと路上からを一読して違和感を覚えたので、ブクマにて否定的コメントを残したが、議論が継続しているようなので、少し書きたいことを書こうと思う。


まず私が違和感を覚えたのは次の箇所である。

だから、例の批判に対して“リソースは有限なのだから”と回答するだけでは不十分なんじゃないかと思うんだよね。単に「左派を叩きたいだけの人」を煙に巻く分にはいいけど、普通に「左派に期待している/いた人」には不誠実に見えるんじゃないかな。

"普通に「左派に期待している/いた人」"は、このようなことで「不誠実に見え」てしまうものなんだろうか。そんな人はどこにいるのだろう。
不誠実だ不誠実だ、と声をあげていたのは、普段から左派に何も期待していない人ばかりだったような気がするのだが。
「左派」という言葉があいまいなので分けていうと、私に関して言えば、今回のチベット弾圧に(目に見えて)声を上げなかった左翼知識人は結構いたと思うのだが、彼らに対しては、少しも不誠実には思わなかった。そして、既存政党、とくに日本共産党にたいしては声を上げなかったからといって、もともとあまり期待していないので誠実もくそもない。


そもそも誠実さや信頼はどこから生まれるかと言えば、これは実感としても強調したいのだが、何より、それまでどういう活動をしてきたか、であると思う。つまりその人が、普段的に何を言っているか、なのであって、一つの出来事に対する一つの反応のみではない。
これは政治的とされる事柄においてとくにそうであり、普段からその人が言ってることによって滲み出て、感じる事ができるattitudeこそが、信頼・不信/誠実・不誠実を形成しているのではないか。普段のわれわれを左右するものだけに、普段着の姿が問題なのだ。晴れの舞台で華麗に見えたか、ではなく。


このように考えずに、つまり日頃の行いなど信頼感の醸成において関係ないと考えると、チベット弾圧反対デモにおいて中国人に対する人種的偏見を言い立てることが有効であるとなってしまう。右派が愚かしくもやったように、われわれの主張を伝える良い機会だ、などという考えを肯定することになる。少なくとも運動論においては。
じっさいinumash氏は肯定している。

今回のチベット問題は、中国が関連する諸所の問題も含めて“人権保護”や“平和”というものを強くアピールするいい機会だと思うからこそ、もっと積極的に“リソースを集中”するべきなんじゃないかと思う。例の新風関係の右派も“逆の立場から”そう考えたからこそ「有限なリソース」を裂いてかなり早い段階でデモまでやったんじゃないかな。多分、彼等だって“やり方さえ間違えなければ”もっと広く支持を集めていたんじゃないかと思うんだよね。なんつーか今回は見事に「機先を制された」感じはする。

やり方さえ間違わなければ、とあるが、チベット問題を機会に右派の主張を広げる有効なやり方など実際あるのだろうか
それが、そう簡単に思い浮かばないとすれば、左派が、これを機会に左派の普段からの主張を広めよう、などという考えもおかしいのではないか。
右派がチベットを政治的に利用することが許されないとすれば、どうして左派のみにそれが許されよう。左派だってチベットを政治的に利用すべきではないのではないか。
あるいはこう言い換えてもいい。そのような邪な目的の潜んだ"チベット、NO"は、多くの人に届くのか。


ある方は、inumash氏の言説を運動論へのすりかえとして批判した。つまり不誠実に見えちゃうんじゃないかな、という問いが、例え内部からのものと言い張ろうと、[左派の運動は不誠実→左派は不誠実→左派の言ってることは不誠実]となってしまう懸念を表明した。
私はそれがもっともな批判であると同時に、inumash氏の論は運動論としてみても、どうかな、という気がするのだ。


なるべく多くの人が、ただ一言"チベット、NO"を言えれば、それで良かったのではないか。
そして、なるべく多くの人を集めるためには、"チベット、NO"しか言わないという事が前もって分かるような体裁をしているべきではなかったのか。政治的に利用するつもりなどさらさらありませんよ、と。
そしてそのような外観を呈していたとして、皆が集まった中で、どこの誰か分からない代々木系の幹部の人が赤い旗の人々に囲まれて重々しく現れ、挨拶などと称して、「われわれはチベットだけでなく普段から、自民党政権の様々な人権弾圧に対して〜」などと演説を始めたら、日本共産党の「誠実さ」は伝わり、その主張は広まるのだろうか。


・・・・・・


日本共産党の労働問題に関する動画がネットで人気になったそうだが、それは、彼らがほんとうに自分たちのことを考えているのではないか、ときっと思えるほど真剣な問いに見えたのだろう。(おそらく日本人にとって切迫なものでなかったせいで)チベットは人々を引き付けなかったが、労働問題では左派の「誠実さ」はより伝わるのだろうか。
それがもし、例によって社民党民主党と共闘しようとしない事をもって、日本共産党の党勢を増すためでもあるのだ、という事が窺い知れたとき、どうなるかというのは注目である。


※追記
文章が下手くそなのは自覚しているので、理解されないとすれば私のせいだろう。
ということで、再度強調させていただくのだが、私は左翼に期待する人など何処にもいない(いなかった)、と書いたわけではない。
左翼に期待する人で、且つ、このような事で不誠実と思ってしまうような人、はどれほどいるのか、と書いた。
つまり左翼に期待している人のほとんどは、このような事で左翼を不誠実とは思わないんじゃないか、という事だ。
付け加えて言うなら、左翼に期待している人で、今回失望した人もいるのかもしれない。しかし、極端にいえば失望させておくしかないかもしれない、くらいに私は考えたりもする。なぜなら、このような事で不誠実に思うような、そのような者の「左翼への期待」については、少し懐疑的にも思えるから。