「正しさ」の力

横やりっぽいのでブコメで済ませるべきかもしれないが、もしかしたら100文字以内に無理にしてしまうと失礼かもしれないので書かせていただく。
id:inumashさんはD_Amonさんの批判の、私が以下に太字にする箇所にもう少し留意すべきだと思う。

私が批判しているのはinumash氏の記事が結果として(意図的であろうとなかろうと)論点を正誤から勝敗にすりかえる詭弁として作用するからです。

思うに、D_Amonさんはinumashさんの意図や真意を問題にしていない。だから、何度inumashさんが「ミスリードだ私はそんな事は言っていない。左派が正しいと思ってる」と自分の意図を説明しても徒労になってしまう。「正しい」といくら内心で思っていても、「誤った」と外部に作用しかねない文章を無自覚に書いてしまう場合がある、という事ではないか。(そして無自覚であれば多少は免責される場合も多々あるが、全面的に逃れうるわけではないだろう。でないとこの世に結果責任とか過失責任とかいうものもなくなってしまう。)
どうしても何か言い返したいのであれば、「失策」というのは「勝敗」は意味してない、ということを主観においてではなく、それが一般的に流通している文法であるとして説明するしかないだろう。そしてそれは正直無理があると思う。とくに、前々回のinumashさんのエントリでは、右派の行動を持ち出し比較した上で「失策」と言っているのだから、私には「勝敗」を述べているようにしか見えなかった、とひとりの読者として感想を述べておく。


もうひとつついでに。

これまで左派が影響力を行使できたのは「自分たちは正しい」というところに留まるのでなく、試行錯誤しながら「それを実現させる方策」を考え、実践してきたからじゃないの

そうだろうか。「自分たちは正しい」とパブリックに言明すること自体、ひとつの力であり実践ではないのか。

「左派」はいったいいつから「正しさ」を主張するだけでいい存在になったんだ?

これが、ワラ人形論法であることは置いておくとして、「正しさ」を主張する事がただそれだけでどれほどの力か、と私は思う。毛沢東ポルポトが知識人を、たとえ何も反政府的なことをしていなくても敵視したことなどを想起しながら。
(『共産党指導部に煽動された暴力的な大衆運動によって、当初は事業家などの資本家層が、さらに学者、医者などの知識人等が弾圧の対象となった。』文化大革命 - Wikipedia
『眼鏡をかけている、手がきれい(労働階級ではない)という理由だけで処刑された事例もあった。ポル・ポト - Wikipedia』)
例えば、何も目立った政治活動をしない日中戦争研究家とか身分差別研究家とかいても構わないと思うのだ。活動をするしないはその人の勝手。しないからといってそれらの研究の正しさが減じる訳でないのはもちろん、その正しさがパブリックになるだけで十分とすべきなのだ。
そのパブリックな「正しさ」をどう評価し行動するかは行動する側の問題であって、どう行動するかまで「正しさ」を提出する人に手取り足取り教えてもらわなければならないのだろうか。少なくともそれは一方にとって相当な重荷であり、他方の怠慢ではないかと思われる。


※繰り返しになりますが、上記はあくまでブコメの代わり、長いブコメと考えて下さい。