あるアマチュアリズム

ブコメ補足。
私も、自ら一騒動起こそうとして行っておいて、騒動を起こさせない目的の人たちと平等に扱えっていう警察批判はどういう事なの、と思ったので、このエントリには賛同する。鋭い指摘である。


でその読後もこのナイーブさは何なのか色々考えていたのだが、何となく私は天安門事件のことを思い出していた。
あの時の北京の学生たちもまたナイーブであった、と言えないだろうか。いや、ナイーブではないかもしれないが、少なくとも、"目の前の敵は本当の敵ではなくむしろ味方である、あるべきだ"という考えでいた学生は結構いたのではないか、と思う。人民解放軍が人民である我々に銃を向けるはずないじゃん、みたいな。(実際に学生たちは解放軍を直ちに暴力で排除するより、説得に動いたように記憶している)
ここには勿論共同体主義がある。分かりやすくいうと仲間意識。そして、長野のチベット応援者たちにもこの種の仲間意識が少なからずあったからこそ警察批判となったのではないか。
で、これらは自らへの弾圧者を味方であると信じているという点で似ているがゆえに、私はどちらをも擁護したいのだろうか。


指摘しておかねばならないのは、この仲間意識が、長野においては対中国という意識において醸成している可能性があるということ。これはいつでもレイシズムに転化しておかしくない。例えチベットの人々を救うという正しい目的のためであっても、わが国にレイシズムの気分が増大してしまう事を私は拒否する。


話戻すと天安門事件では、有名な、戦車の前に立つ学生の絵を覚えている人は多いと思う。
私には彼の声がこんなふうに聞こえる「ちょっと待ってくれよ、よく見てくれよ、俺たちは味方だよ、味方を撃つの?」「撃つ前によく見てくれ、いやその前にまずオレを見て、轢いていけよ、できるのか?」
実際の所は知らん。
問題は実際にどうだったかより、人々にそういう色んな解釈を成り立たせ、天安門事件は記憶により残ったという事である。こういうアマチュアリズムは決して無効ではない、と思う。
日本でも小田実が関わっていた既成政党とは一線を画したユルい団体であるベ平連なんかは、目の前の機動隊や公安関係者をいたずらに敵と見なして行動することを避けようとしていたように記憶する。石を投げるだけではなく、ときとして任務放棄を説得してみたりしたのではなかったか。もちろんそのユルさは先鋭的な左翼には嫌われたことだろう。


ベ平連も北京の民主化運動も直接的には殆ど成功してはいない。ただしそれは、直接的には、ということである。