例え話の否定的側面について

世間で消費される言葉の寿命は短い。とくにネット界ではそうなのだろうか。
あれほど以前「サイバーカスケード」なるものの問題についてあれこれ言われていたのに、昨今あまり耳にしなくなっている。しかしその問題は残っている筈だ。
例の青学の准教授の件で、まだあれが自業自得だとか、カギをかけなければ泥棒に入られても仕方ない、みたいな言われかたをしているのを眼にする。サイバーカスケードをそういう例えで語るのは間違った理解を与えることになるだろう。kanoseさんが以前言っていたが、例え話には要注意である。
カギをかけない家に入る泥棒は名のある個人である。彼に出来ることは物理的に限られているし、罪の意識を、見つかれば報いを受ける意識をもって行動しているに違いない。必ず捕まるものではないが、個人だけに犯罪行為の道筋の特定は比較的容易ではある。
サイバーカスケードというのは、例えれば、その家にカギがかかってないからといって、ロス暴動のように暴徒が押し寄せ、一人一人は僅かの品ながら略奪し尽くし、その家をすっからかんにしてしまう行為である。そこでの一人ひとりは名も無く(特定するのが容易ではなく)、罪の意識も薄いから、被害者も警察も途方に暮れてしまう。
カギをかけないからといって、暴動によって家をめちゃめちゃにされてしまったら、それをまだ自業自得などと呼べるだろうか
また、身分証もチェックしないでガス点検と名乗る人間を家に上げて殺されてしまったら、それを自業自得とは言わないだけの分別は皆あるだろうが、隣国のように実際に(自殺ではあるが)死者が出てしまったらどうか。


などと考えると、やはり今回のような件での小倉秀夫氏のような立場にいる人の発言は(正当性はともかく)、そのへんのブロガーよりもはるかに重いと考えるのである。実際にそのような被害の細部をより詳しく知り、また被害者と面と向かって話をした事のある人として。
被害者になったことのない人が勝手な想像で被害を軽く見積もりあれこれ語っても、ただ説得力がないだけで済むのならばいいが、実際に被害者になってみて初めて分かった、では遅すぎやしないか。


ちなみに、だからといって例え話は全面的に止めましょう、とまでは言わない。