例え話について

ある物事を理解するのに「同じ(もしくは似ている)」「違う(もしくは似ていない)」を頻繁に用いてしまうのは、仕方の無い所がある。なにしろ私たちがこの世に生を受け日常生活を獲得するにあたっては、母親や友達と「同じ」ようにやる事からスタートしている。あるいは「違う」ことをやらない事から。
そもそもなぜ「理解する」「分かる」という言葉が用いられてるのか。何にも類推できない混沌Xを「解き」、「分ける」ことにより、分かれたある部分aを既存のa'と同定したりbと同定しなかったりすることが理解だから、と思われる。
Aを語るのにただAと断定して理解されるかというと、理解者はたいてい(Aということを理解する準備が万端ではないかぎり)、BやCとの対比において理解しようとするはずだ。
とくに一般的な命題においては、それは個別にどのように適応されているかという「例示」は理解を促進させるだろう。


などと、どうでもよさげな事をさももっともらしく書いているが、こんな事書いても結局、例え話について、例え話は物事を混乱させるだけとか、ひどいのになると議論の本質から目をそらすためにする、とか言われるのは止められないだろう。なぜかというと、そのように言えば、例示によって一般論(あるいは本質)が否定されるのを防ぐ事ができるからである。少なくともそう言いたがる人の主観においては。


先日からエントリ上げてる匿名論議においては、例示的に語らないならば、「匿名による誹謗中傷」と「匿名一般」を同じ「規制」のもとに論じれば混乱するに決まっている。論理的な層がきちんと区別されていないからだ。「匿名による誹謗中傷」はメンバーであって、「匿名一般」はクラスである。
つまり『「匿名による誹謗中傷」と「匿名一般」を分けて論じてくれ』などとこれら2つを並列的に語るのも間違っている。「分けて論じろ」なんてもともと一つだったかのようではないか。
正確にいえば『「匿名による誹謗中傷」と「匿名一般」は変えて論じてくれ』もしくは『「匿名による誹謗中傷」と「匿名による誹謗中傷でないもの」は分けて論じてくれ』となる。