そろそろ、本当に、気づくべきなのは何か

あまり途中で考えず、だらだら書いてみる。


buyobuyoさんの所にコメントしていて改めて思ったこと。
それは多くの個人サイト、ブログに関しては、「死ねばいいのに」とか「これはひどい」とか言われてしまうような、議論を呼ぶような内容のものの方がアクセスが多いこと。つまり面白いということ。
単なる本の感想だとか日々思ったこととか、今日はグラタン作ったとか犬が下痢したとか、そういうものの99.9%くらいは激しく詰まらない。
ヒトにはそれぞれアプリオリに「価値」があって、みんながそれを表出することに意義があるなどと考えるような「善意」に溢れた人だって、きっとその99.9%のうちの99.8%のものは見ない筈だ。


個人サイトで穏健な、本や音楽の感想だの日々感じた事だの書いて面白いと感じるものは、かなりのオリジナリティがあるか、豊富な知識に支えられた卓越した見識のあるものに限られる。
そしてネットによって、そういうオリジナリティや卓見が身につくわけでもない。あくまで現実と地続きであって、個人サイトで見るべきものに関しては、たいてい書物や見聞など背景にあって、現実できちんと勉強してるなあと感じさせるものを持っている。


現実においては、近代になって義務教育が施されて久しいが、知の階層というのは明らかにある。フラットにはならなかった。もちろん数々の制約でその能力が発揮できなかった多くの人々には申し訳ないが、同じように能力を発揮できるような環境を用意されていながら、方や地方私立、方や東大という差がついてしまうという現実はあるし、それは何十年も変わらなかったし、という事は、これからも変わるまい。


現実と同じような、池田氏のごとく実名が基本の、「死ねばいいのに」などの罵倒のない穏健な世界にネットを強制的に変えてしまえば、おそらく知の上位階層にあるものしか読まれなくなるだろう。個人サイトでいえば、穏健な内容でありながらそれでも面白いと感じるようなごくごく極めて少数のものしか読まれなくなるだろう。
現実に近づくわけである。そしてこれは真っ当な結果だ。たとえば、個人の日記を出版するような出版社は無いし、そんなもの自費で出版しても誰も買わないのと同じ事。


音楽や絵画やスポーツなどにおいては、能力のアプリオリな差を簡単に容認するのに、言語世界においては、とくにネットにおいては、予め差があることに抵抗がある。
ある意味当たり前かもしれない。音楽などは感性の世界であり言語は論理の世界である、と言うこともできる。そして論理は平等にちがいない。論理が平等だからこそ、コミュニケーションが成り立つ。われわれは、言語的コミュニケーションにおいては、現実的には非対称かもしれないが、前提的な原理においては、平等だ。


議論とはコミュニケーションである。ここには「差」はない。あるいは差はないという前提で動いている/が動かしている。
いっぽうで、言語を使い、穏健な意見を独り言的に表明することもできる。ここにも差はない、のだろうか。
現実には差があるからこそ、知の階層が存在するのだが少なくとも、差はないという前提で動いている/が動かしている、のは変わらないだろう。ただし議論や批評などいっさい求めないと発言者が前提したり、場自体において議論や批評などが制限されたら?
そこにこそ冷酷な「差」が出てくるのではないか。音楽的才能のように。


少し前になんとかの壁という本がバカ売れしたが、言語=論理という差が本来なかろう所において、超えられない知力の壁を現実を直視して見出し、超えられない人は黙るか無視されるか。(私みたいな何の見識もないような人はブログなど書かないべきなのか。)
あるいは、差はないという前提をキープして、議論や批判を許容してネット特有のコミュニケーションの場を維持していくのか。
最近の私的にはこれらは迷うところだが、少なくとも、議論や批判をあーだこうだと否定し罵倒語を制限しつつ、毒にも薬にもならない個人の感想や日記などを広く読んでもらおうなどというのは、かなり虫の良いお願いであることは確かだろう。