ネット過大視こそが問題ではないのか

久しぶりに自分の絶望が理解されないだろうという絶望 - アンカテへ言及させていただく。
まず、essa氏は日本社会の不健全さが見えていない。

そこが日本の社会の不健全な部分を象徴していると思います。私が一連のエントリで批判の対象としているのは、その部分です。

「誰かに見つけてほしいけど、おまえたちには見つけてほしくない」あるいは「自分の絶望は誰にも理解されないだろうという絶望」といった心情を非常に強く拒否し排除しようという傾向です。そういうことを言う人たちの心の中に、ちょっとでも立ち入りたくないという恐怖心のようなもの。

理解されたくない絶望だろうが理解されれば解消される絶望だろうが、絶望に変わりはない。たんにレトリックの問題だ。前者の「理解されたくない絶望」などの多くははさしずめ「生半可に理解されたくない絶望」や「間違って理解されたくない絶望」に過ぎないだろう。そして日本社会はそのような成員の絶望を<非常に強く>排除しようとしているとは思えない。近代社会は、脱落することを容易には許さない。なぜなら許さないことによって成立しているからだ。
あるいはどのような種類の理解も共感もすべて拒否するような絶望などがあるとしても、近代社会はあの手この手で手を差し伸べ、矯正し共生を促してくるものだ。池田小の犯人だって死刑になるまで相当の時間を必要としたのだ。
だからむしろ日本社会の不健全さを、どんな絶望も拒否し排除しようとしない傾向、とするならば話は分かる。本当に深く絶望したことがある者ならば、誰かがそれに対して「分かる分かる。俺も絶望してるんだよ」と言われてしまう事ほどイラつかせるものはない事は理解してもらえるだろう。むしろ何も共感せず拒否してくれた方が良いくらいに。


そもそもが、「絶望」と表現されえる分マシなのであって、そのように言語化できる事は理解可能という事であり、一方で、「絶望」と表現できないものを抱えた(ように見える)人たちを、この日本社会は容易に排除してしまうという問題はある。某カルト教団の幹部や、死姦犯罪者のように。
しかし今回の問題はこちらではないだろう。


ところで、essa氏が日本社会の不健全さを排除の傾向に見てしまうことのなかにこそ、私は今回語るべき問題点があると考える。
排除すべきでないと考えるからこそ、排除を不健全と表現するに違いない。つまり可能な限り手を差し伸べよ、という事だろう。そして恐らく氏にとって、その手を差し伸べるのはネットによるのだ。だからこそ、たかが「犯罪予告検知システム」程度のものに何ができるかと自問し、社会の中に居場所の無い者を網羅的に補足するにはそれでは足らないかのごとく、「絶望」を検知するなどという所まで議論を持っていくのだ。ネットを利用しないものなど眼中にないかの如し。
「絶望」を検知するのが、システムとして可能か可能でないかとか防止するのに有効か有効でないかとか、その結論がどちらであろうと、じつは、こういう発想・議論をしてしまうこと=ネットに過大な期待を抱いてしまう事そのものが不健全の源なのである。


もうそろそろ、ネットにできる事など限られている、と冷たく突き放すべきではないのだろうか。
ネットにあれもやらそうこれもやらそうとするのを、止める。いや止めるとまではいかなくても、まずネットと発想する前に、現存の手段でどうにかならないのかを考える。ネットなど電子化にすぎず単なる利便性の問題であって、これによって社会など大きく変わるものでもない。年賀状が個人で印刷できるからといって何が変わったというのだ、しかも年賀状自体減ってるし。場合によっては書籍などのように、電子化すると使いづらくなるものも多い。徐々にそういうふうに、これまでとは逆方向に考える時期なのではないか。
そして何より、実現の具体的な道筋が曖昧・不確定なまま、ネットによってあれができるかもしれない、こうなるかもしれないなどと未来語りをして楽観的な言説を述べ、結果としてネットには何かあるかもしれないと期待感をばら撒く事になるような行為はもう止めるべきなのではないのか。


別にアキバ事件の加害者が、ネットに過大な期待を抱いていたとまで言うつもりはないが、それに近い心情であった可能性はゼロではない。ネットで彼女が出来た友達が出来たという話をどれくらい彼が耳にしていたかは知らないが、少なくとも掲示板に書くのはローカルのメモ帳に書くのとは全く異なる行為である。どんな内容だろうと外部に向けて書くという事は、少なくともどこかの誰かに読まれることは企図しているはずだ。そしてそれ以上の期待があったとは今の所いえないが、無かったとも断言できないだろう。誰もがアクセスできる掲示板は、誰もがアクセスできるという事によって何かあるかもしれないと実態以上に期待させるものがある。がしかしあくまで実態以上であって、殆どというか99.9%大した事は起きない。
しかし居場所の無い者は0.1%だろうとそこに期待や希望がある限りすがるものである。そして、期待や希望がある所にこそ絶望は生まれる。
最初から食べさせるアテもないのに目の前に人参をぶら下げ続ければ、温厚な馬が狂馬と化す事だってあるだろう。