個性信仰2

ブコメの続き。


「個性」とは何か、がまず混乱しているので整理したい。
そのためにまず、それを「個体差」と考えてみる。言うまでもなくそれは間違いなく存在し、存在するどころかそれを消し去ることもできない。
あるものは体毛が濃くあるものは体毛が薄い。またあるものは体臭がきつく、あるものはド近眼である。というふうに「個体差」は存在するが、これらは「個性」だろうか。
「個体差」は能力にも関わる。たとえば、跳び箱であるものは10段が跳べ、あるものは2段しか跳べない。これらは「個性」だろうか。


もし上記に挙げた「個体差」たちが「個性」なら、"個性を伸ばすことが大事"とか言う人たちは、体毛が濃い人に「体毛が濃い。いいですね、そのまま伸ばしていきましょう」とは言わず、また、跳び箱2段しか跳べない人に「〜さんは跳べない人なんですね。いいですね、そのまま2段跳び続け、3段以上はやめときましょう」などと言わないのか。そして跳び箱に至っては、更に他の人並みに跳べるように練習させるのか。


これが美術だと話が違ってくる。たんに描ける描けないの「個体差」かもしれないものが「個性」と語られたりする。
これは美術が、あくまでシロウト目には何が優れたものか曖昧な分野であり「跳び箱5段」というような同じ結果・基準が存在しない事からきていると思われるのだが、その事をもって「同じ」を放棄し「違う」事を良しとしている所から「個性」という言葉の理解に近づける気がする。
なぜなら美術だって、クロウト目には何が優れたものか、跳び箱や棒高跳びほどハッキリとは言わなくても、確実にあるのではないかと思われるからである。しかし、多くの他の教科の先生や親にはそれは理解できないから、「個性」という話になるのではないか。


結論を自分の頭の中だけで急げば、「個性」とは違いを社会化したモノ言いであって、ある行動規範の言語化ではないのか。
体育では同じであることの方がより行動規範とされるから「個体差」は個体差のままかむしろ解消されようとし、そして美術だってそうあっていいはずが、美術特有の理解しづらさから違うことが規範化され、「個体差」が解消どころか前面に押し出され、「個性」と言語化する。
つまり問題は、「違い」を規範化するかどうかによるのではないか。


蛇足として、しかし一番重要な事を書き足しておく。
恋愛などに関わるとき我々が直面するのは「個体差」である。同じようにやろうとしても、同じように男であっても女であっても、その人でしかない部分、片鱗をこそ猛烈に愛するのだ。
そしてそれは「世界にひとつだけの花」などと言語化、つまり行動規範によって「個性」と思考化するまでもなく、目前にある。見ようとせずに、見るのである
「世界にひとつだけの花」などという言葉で語られるような恋愛は、すでにもう揺らいでいるようにしか私には思えない。