他人の満足

私はこういう事を言う人を信用しない。しかも、ブログなどでおおっぴらに言うとしたら、尚更である。
なぜか。
虚偽だからである。


そしてこれは虚偽だが、単純に嘘をついているわけではない。おそらく本人は良心からそう言っているのだ。しかし、だからこそ問題なのである
偽っているという意識が本人に無ければ無いほど、本人は真剣かつ熱心で親身なわけであり、余計始末に負えないものだ。


なぜ「他人の不幸は蜜の味」とか「上見て暮らすな下見て暮らせ」という言葉が広く知られているか、を思えばいい。
人は、他人と比べざるを得ないからこそ、こういう事が言われてきたのだ。これらは実に人というものをよく分かってる言葉なのである。比べたがるのは、社会的動物たる人間の本性といっても良い。だから「横にずれろ」なんて言ったところで無駄。


だいたい「自分」などというものが「他人」と関係なく「ある」と考えることじたいが馬鹿げている。
「理解する」とか「分かる」というのは、言葉どおり、「分ける」ということである。あるものをAとBに、ただしく言い換えればAとA以外に分けるということ。
つまり自分を理解するということは「他人」から「分ける」、そして「分かる」ということだ。そして「分ける」ためにはなんらかの基準(差異)が必要となる。他人との違いが「自分」となるわけだ。
例えば、伊予柑の中から夏蜜柑を取り出そうとしたら、比べるしかない。この世に女がいなければ男にすらなれないのが実情だ。女がいない空間(軍隊、刑務所)で男色が出てくるのも、一部の者が男であることを失うからである。


そして、他人との関係のなかでのみ「自分」が見えてくることに同意するなら、そこに止まるものでもないだろう。自分がどう生きるかについてだって、他人がどう生きているかと比べることなしに決定など絶対にできない。あえて、他人と違うことを志向するか、他人と同じ事を志向するかという方向性の違いはあっても、比べることにおいて変わりはない。
もし比べずにやっているという人がいるなら、そこには恐らく「自分」は居ない。分けて(比べて)いないのだから、あっても分からないだろう。


またどう生きるかというのは、どう欲望するかという事でもある。自分の欲望すら、他人の欲望と比べて判断する。他人の満足をみて、満足を知るのだ。
子供がいる人なら、子供にとって欲しいものは、皆が欲しがる物であることは納得するだろう。我々(親など)がある玩具を羨ましがると絶対貸してくれないが、誰も興味を持ってないことがわかると、せっかく買ったのに憎らしいくらいほったらかしにする。
言い換えれば、自分の欲望は自分でコントロールできるものではなく、他人(たちの欲望)に常に支配されている。
これは別に恋愛とか社会的地位に限らない。何かを身につけるとか何かを食べるという単純なことすら、他人の目から自由ではない。


他人の欲望することしか欲望できず、また、他人と違うことによってしか自分を定立できない。
このようにして我々は他人と比べまくって初めて生きているのだ。
これは、このような認識をもつこと=メタレベルに立つことでも逃れ様がないのかもしれない。ただ、これらを否定したり、簡単に逃れうるとしたりするよりは余程マシだろう。
なぜなら欲望は、まして隠されていて「思わず」遭遇することになった欲望は、頭の中で戦って勝ったとしても、いずれまた思わぬ所から幾度も逆襲してくるものだからである。そして場合によっては、その人の人生を滅茶苦茶にしてしまう。
欲望はその存在を認めて適度に解放してあげた方が良かったりする。いやこれは単に、煩悩にまみれた私のような人間の言い訳に過ぎないのかもしれないが。