理性

「論法の同型性」論法の危うさ - 吾輩は馬鹿であるで行われてる議論についてブコメしたが、その後コメ欄でまた議論が進んだようなので、現時点でのそれへの補足。
Sokalian氏いわく、

ホロコーストトリアージの共通点はどこにあるか?「資源の希少性」と「合理主義」しかないのである。

つまり、ホロコーストトリアージには共通点があることは認めている。一歩進展。
その後、

企業内の人員配置計画も、我が家の家計も、すべて「ホロコースト」と同型の論理に支えられている、と言えてしまう。

と続くのだが、私はこの時点で、もしかしてSokalian氏もhokusyu氏と同じ地点に立ってるのでは、と思った。
だって、
 「資源の希少性」と「合理主義」をもって、企業内の人員配置計画とホロコーストを同型とするのが×
なら、当然同じ論理で、
 「資源の希少性」と「合理主義」をもって、経営学ホロコーストを同型とするのも×
だし、ひいては、
 「資源の希少性」と「合理主義」をもって、経営学トリアージを同型とするのも×
としなければならないのではないか、と直観的に考えたからだ。


しかしどうもこれは私の誤解のようだ。つまり先に挙げた言葉をもう一度以下に示すが、太線部分が重要らしい。

ホロコーストトリアージの共通点はどこにあるか?「資源の希少性」と「合理主義」しかないのである。

それとコメント欄の以下の発言に注目した。

> すいません。経営学トリアージを結びつける根拠となった共通点って何だと認識しています?

もちろんそれも「資源の希少性」と「合理主義」です。ただし、資源配分の問題というのは、その二点だ(け)に着目して進めるところまでできるだけ話を進めてみようという枠組みなのに対し、「ホロコースト」というのは上記の二点「だけ」からは決して出てこないはずです。一部の集団の特殊な価値観とか時代背景とか、他にも考慮しなければいけないことが多すぎます


これらの考えをざっくり整理する。あくまで勝手な推測だが。

  1. ホロコーストトリアージとには共通する部分があるが、ホロコーストには他の「多すぎる」要素がある。
  2. 仮定するならホロコーストの中は、せいぜい20%くらいがトリアージ共通要素、他の80%は非トリアージ要素である。
  3. つまり80%部分も非トリアージ要素があるのに、20%部分において、トリアージを通じて企業内の人員配置計画や経営学とマッチしていても意味がない。
  4. 一方トリアージは「多すぎる」要素がない。つまりホロコーストと共通する部分はトリアージ側にとっては80%であって、企業内の人員配置計画や経営学とマッチするかどうかの吟味が可能となる。
  5. なぜ「ホロコーストと共通する部分はトリアージ側にとっては80%」と推測できるかというと、もしホロコーストと共通する部分はトリアージ側にとっても20%に過ぎないのならば、20%部分において企業内の人員配置計画や経営学とマッチしていても意味がない、という論理がこの場合も適用されかねないからである。
  6. ホロコーストと共通でないトリアージの要素で経営学とマッチしそうなものが他にあれば、また話は別。

と、こんな所だろうか。


結論を急げば、結局争いは、私には、ホロコーストをどう理解するか、ホロコーストの本質的部分とは何か、に最終的にすべてそこにかかっていると思われる。要素の多寡ではなく、例えば20%部分でもそこに本質的部分があるならば、それを他の事象にあてはめる事は許されるだろう。
ここで、ホロコーストの中の80%の非トリアージ要素をSokalian氏がどう表現しているか再度見てみる。

一部の集団の特殊な価値観とか時代背景とか

「一部」「特殊」「背景」といった言葉に注目して欲しい。計らずもSokalian氏自身が、「考慮しなければならない多くの事」は本質的部分ではない、と告白しているように私には見える。「特殊」よりも押さえるべき部分は「一般」だろうし、おなじく「背景」よりも「対象そのもの」だろう。
むろん、これらの特殊な部分こそがホロコーストの本質だと言うことも可能である。
その場合、ホロコーストはどこへも言及できない事象となる。
もし同様の事が現代で起ころうとしていて、ホロコーストのときはこういう事も起ったぞと警戒する人がいれば、時代も違えば思想も違うで片付けてしまえばいいのだ。



これはヒトラーの本質をたんなる狂人としてしまう事とパラレルである。言い換えれば、理性的な改革主義者としない事と。
以下はたんなる私のエッセイのようになってしまうが、ちょっと想像しただけで、一人の狂った指導者がいたからといってあのような事が起るわけが無い、となりそうなものなのだが。正義として行われたからこそ多くの人が参加し、多くの人を殺すことが可能になったわけで、間違った事しているかもと悪事を働く人を止めるのは難しくないが、正義を止めるのは容易ではない。ベルリンオリンピックは多くの国が参加し、盛大に行われたのだ。
あとから考えれば残酷なことが、そのときは残酷な事として現れることなど無いのが一番恐いのだと思う。ナチスをたんに暴虐的現象からしか見なければ、同様の暴虐がないときの残酷には気づけないだろう。
そして宗教と同様に理性もまた、残酷を残酷でないものにする力をもつ。理性的であることは防御どころか、攻撃的にもなりかねない。
アウシュビッツの出来事と同じくらい、当時ナチスが先端的な理性的な政策を数多く行い特に労働者にとっては福音であり正義であった事は知られて良いと思う。(ナチスを評価することはときに両刃の剣だったりするし、欧州ではタブーだろうけど。)どれだけの科学者・医者・技術者がナチスのために働いたか。