さて世間の声はどちら?

しかしこのブログ、出だしから結構無理があるいちゃもんである。
水村氏が「今や、広く読まれる小説といえば、つまらないものばかりになっていると、人はいう。」
と書いたのに対して、

「と、人はいう」、その「人」とは誰だろう。ご自身がそう認識しているのか、具体的な誰かがそのように発言しているのか、どちらなのか。編集者や校閲者はいったい、なにをしているのかと思う。

この「人」は英語でいえばさしずめ"they"だろう。具体的に誰を指すわけでもなく広く一般に言われている(行われている)ときに仮に立てる主格のようなものではないか。だから、1.ご自身がそう認識しているのか 2.具体的な誰かがそのように発言しているのか、という二者選択なんてありえない。無理がありすぎる。いちゃもんである。
こういういちゃもんを意地悪でなく本気でやってるとすれば、もはや英語ができる人とそうでない人はこんなにも溝があるのだなあという感慨になるのだが、「訂正」と書けばいいところをわざわざ「リライト」とか書く人が、英語を知らないという事はないだろう。


もちろん、誰もそのような発言をしておらず、したがって"they"で表現できるような世間の状況が皆無であれば、水村氏の発言の方が分が悪い。
だがこれは、ちょっと検索してみれば分かる事ではないか。「最近の文学」+「つまらない」or「面白くない」でググれば、相当の数のブロガーや匿名掲示板の声として、つまらないという事は言われている事が分かるだろう。また「最近の文学は面白い」という声などとどちらが声として大きいか、比べてみるのも一興である。


そしてこれらの不満の声は、なかんずく、文学賞を取るような小説にたいして多く向けられていることにも気付く。これはsolar氏の次のような言葉を見事に裏切ってるのではないか。

ただ、〈読まれるべき言葉〉とか〈規範性〉という意味での「文学」という観念の助けをかりなくても、十分に作家と読者との間で受け渡しがされている、いくつものすぐれた「小説」がありますよ、と言っているだけである。

文学賞を取るということは、評価の客観性に乏しい文学の世界において、少しは客観性に近い外観をもった評価だろう。文学賞を取るということは、まあまあすぐれている文学作品、という事になるだろう。
で検索して分かることは、そういう小説が、十分どころか、あまり受け渡しされてない状況があるという事だ。
だからむしろ私は、solar氏の「いくつものすぐれた「小説」があると言ってる」の主体の方こそ、実体に乏しいのではないかと考える。氏の方こそ、その主格を「自分が思ってるだけ」なのか「誰か特定の人が言ってる」のか説明するべきである。
もっともsolar氏の場合は、誰も検閲しやしないから、編集者や校閲者まで巻き込んでDISる訳にはいかないのだが。


ところでそれ以上に重要なことで分からないのが、solar氏がその前日にアップした内容との整合性だ。氏はこう書いているのだ。

、「近代文学」の達成をふまえつつ、現在の日本語で優れた小説を書いている作家たちの「孤独」こそが、広く知られるべきなのだ。

孤独にたいする「」づけがどういうニュアンスなのか知らないが、いくつものすぐれた小説は、「十分に作家と読者との間で受け渡しがされている」のではなかったのか
受け渡しがされているのなら、なぜ「孤独」であることがあろうか。文壇的評価において「孤独」ということか。
確かに村上春樹のような人は、文壇的な場からは身を引いているが、solar氏があげる他の作家はどこがどう孤独なのだろう。保坂和志なんて芥川賞作家じゃなかったっけ?