ブコメ補足

昨日の続きみたいなもの。


とりあえずこれ書いてる人が現在の日本文学を擁護したいのかそうでないのか、分からなくなっているのだが、少しだけ書いておく。


solar氏の主張としては(あくまで現在の、だが)、日本という国が、あらゆる領域において「雑種」を否定(隠蔽)してきたせいで、日本はダメらしい。


いや、パワーズのような作家が生まれないといってるだけで、ダメとは言ってないのかもしれない。しかし、アメリカ文学より日本文学を下に見ていることは間違いなく、それで十分だろう。それで十分文学にとってはダメという事ではないか。
文学は走り高跳びやサッカーと違って2番手という評価に意味があるとは思えない。作家にとっては作品はやはりオンリーワンであって、君の小説もすばらしいけどアメリカのモノほどじゃないね、と言われて確かにそうだよな、と思う人は少ないだろう。(いたら本当にダメである。)
したがって、ここにおいてsolar氏は現在の日本文学の多くの作家たちを貶めている、と私は感じる。


さらに国が「雑種」を否定するなら文学までもダメになるのか、という問題もある。
これはあくまで私の作家観であるが、作家という人種は公がそうであればあるほどその状況に抵抗する人々なのではないか。
これは、国家のやることに従わないのが文学者であるという事では、必ずしもない。公が「雑種」を否定するのが正しくないと思えば抵抗するのは無論、その否定が政治的・社会的には正しく見えようとも、文学として「雑種」の側に立とうとする。有名な比喩でいえば、99匹のために1匹を犠牲にするのが正しいと認めざるをえないとしても、あえて、1匹の側に立つという無理を犯す。そういうのが文学および文学者であると思う。


つまり公が「雑種」を否定するということは、それは作家をダメにしてしまうものではなく、作家を書くことに向かわせる何よりの動機ではないか。
日本という国が「雑種」を否定してきたのは私も正しいと思う。たいていの近代国家はそのようにして成り立ってきたのだろう。
だとしたら、日本の作家が真に作家であれば、より書かざるをえないわけで、公が否定してきたから日本の作家は書けないなどと言うことは、日本には真に作家たるものは居ないと言ってるに等しい。
ここにおいても、solar氏は現在の日本文学の多くの作家たちを貶めている、と私は感じる。


結論として今回のsolar氏のエントリで私のなかにぼんやりと浮かび上がってきたのは、氏がひょっとしたら水村氏以上に日本の作家たちを貶めているのではないか、という事。
フォークナーは黒人が公民権を得る遥か昔、白人と婚姻する事などいっさい考え付かない時代に作品を書いた。そこには文字通りの「雑種」(混血の人)が出てくるだろう。
で、パワーズは未来を予想して書いた?
何を言ってるのだ。パワーズという人はたんなる夢想家ではない。彼もまた文学者であるかぎり、今暮らしている現在を見ながら書いてきたに違いないのだ。
パワーズが該当作品が出版されたのは2003年。その前作は2000年。その間には911があり、そしてアメリカで公が殊更意識され、少数の者の意見が通りにくくなっていた。そんな状況にパワーズが抵抗したというのは単なる私の思い込みだが、少なくとも作家はそんな事ではダメにはならないようである。