不用意な発言

そろそろ立った腹もおさまってるかと思って久しぶりにココ覗いて見たら・・・ぜんぜん変わってなかった。

沼野氏のこの言葉は、水村氏同様、現代小説全体への否定に感じられて腹が立った次第

いい加減、腹立ちとかそういう衝動で文章書くの止めたらどうか。
このid:solarという人は自らの腹立ちを誰かに共有してもらいたいとでも考えているのだろうか。だとしたら、そんなもん評論でもなんでもない。たんなる煽動であって、評論の対極に位置するものだ。
腹立つことはあるだろう。しかしその「腹立つ自分」を冷静に見る自分が別に存在して、初めてそれは第三者が共有できるものとなる=評論たりえる。第三者に共有されるためには、自らがまず第三者にならねばならない。


沼野氏のどこが逃げているというのだ。しっかり読み飛ばせないと書いているではないか。この沼野氏の文章を、「いっけん不必要に長いという印象を抱くが、その印象のままあまり吟味せずに読んではいけないだろう」というふうに善意に解釈することは全く不可能ではない。冷静な頭であれば。
そしてだからこそ、性急にこれは面白かったあれは面白くなかったといえないから、具体的な書名は挙げなかったのだろう。いったいどこが不用意な発言なのか。とても慎重な発言ではないか。


むしろ沼野氏がどれを読んだかあるいは読んでいないのかはっきりしないのに、

沼野氏は(おそらくは大半を読んでもいないくせに)「印象を与える」などと書いてその作業から逃げるのだ。

などと書いて沼野氏を読んでいないと決め付けるような書き方をする方が、何万倍も不用意で、いや不用意どころが侮辱的な発言だろう。


ならば私も勝手にsolar氏の頭の中を推測してみよう。なぜ沼野氏が大半を読んでいないと決め付けたか。
おそらく読んでいれば肯定的に評価する筈だという思い込みでもあるのではないか。きちんと読めば誰もが面白いだろうと感じるはず、という作品・作家への入れ込みがあるのだろう。沼野氏が読んでいてそのうえで否定することなど想像できない→氏はきっと読んでないのだ、という発想。
私から言わせれば、これこそが「現代小説が構造的に抱えている問題」だ。長い作品を書かせてもらえない事なんてたいした問題じゃない。
こういう「きちんと読めば良さが分かるはず」という純文学の傲慢さこそが、純文学凋落の原因の一つではないのか。この良さが分からない者はもう終わってるね駄目駄目じゃんみたいな。賞をとった作品が通ります、偉い作家や評論家が誉めてる作品が通ります、したーにーしたーにといった具合。読者の側は、ありがたく読めよと言われて手にとってはみたものの、たいして面白くない。これならへんに薦められるものより、自分で面白いと思ったものだけ読んだほうがいいな、となる。読者は馬鹿にされたくはないものだ。
そしてここには、評論家が作品を誉めるだけでどこを面白がるべきかということを上手く説明できなくなってるという事情もあるかもしれない。


蛇足だがsolar氏のこのエントリは追記までもが醜い。
沼野氏は、文芸誌が「いい作品が足りないので今月は刊行を延期します」と宣言するような事態をきちんと「夢想」だといっている。まあありえない事だが、という了解がそこにはある。与太であることなど人に言われなくても分かってるのだ。
それにたいしてお前こそ文芸時評を休載せよと、「夢想」であることを理解せずに「実行」を迫るのは、繰り返しになるがあまりに醜い。