ある、自爆ならぬ自縛行為について

id:NaokiTakahashiさんはもう終了気配で気が引けるので、手短に。(何度もブクマで絡んだ落とし前みたいなエントリなので、流すように読んでいただければ、と。)


やはり私は、NaokiTakahashiさんの方が都合よく現実主義を持ち出している気がする。それは、たとえば、hokusyuさんに文句が言いたいがため?
NaokiTakahashiさんが最初に文句を言ったときにこんなことを書いている。

男が獣でないことは自明ではない、……と考える人が割とまだまだたくさんこの社会にはいる。

この現実主義は「男はケモノだ」とパラレルですよね?「日本の民度は高くない」=「男はケモノ」
曽野氏ら復古主義者が、(おそらくは)若い女性に文句を言いたいがために都合よく持ち出された現実と。


そして結果、曽野氏が自衛を呼びかけるがごとく、NaokiTakahashiさんも「予防拘禁めいたことを書かないようにしよう」という自衛に走ってしまっている。曽野氏が行動における自衛なら、これも言論における自衛ではないのか。hokusyu氏の「過激な」言説を、若い女性の過激な服装として扱っているのではないか。
曽野氏を批判する人を批判することで結果として相手を利するからNaokiTakahashiさんは自衛厨に重ねられるのではなく、両者が同じように都合の良い現実主義者であるから重ねられてしまう。一部の人からは、そのように指摘されているのだ、と思う。


で肝心なことは、その自衛の効果として曽野氏にとっては若い女性が「引きこもる」ことは殆ど氏の利害に影響はないと思われるのに比べ、NaokiTakahashiさんの場合はヘタすれば自分で自分の首を絞める事にもなりかねないという事。
表現者に一切自衛(自制)が必要ないとは言わないけど、具体的で差し迫った状況に押されているとも思えないなかでさえも自衛を徹底することになるとしたら、何とも息苦しい言説空間を築くことになってしまわないか。それが心配です。


そしてこれは蛇足でかつ買いかぶりなのかもしれませんが、NaokiTakahashiさんが忙しい合間においてブログにおいて書くという事は低い日本の民度を少しでも高くしようとするものではなかったのか、とも思っていました。


以上です。
表現者でもない者が上記のような事を書くのは失礼にあたるかもしれませんが、何卒ご寛容のほどを。

ひとこと

最近これほど頭くる事なかったんで、ちょっと、どころかかなり乱暴な、人によってはおおいに不快になるかもしれないが、それすらも敢えて、ひとこと書かせて頂く。


理系学者ごときが国家、国家うるさいよ。
しかも競争がどうのって恥ずかしくも唖然の世俗まみれの。

ある困難について

■沈黙していることと「本気で思うことは出来ない」と公言すること

思う事と言う事が直結している、なんて馬鹿げた事は、たとえば幼児でなければ、そんな事はありえない。というか、思うことをそのまま言わない事によってしか、われわれは生きられない。
日常生活をちょっと想起すれば分かることで、お前さんは、思ったことを全て口にして生活しているのか、と問えばいい。そして、言うまでもなく、日常生活もまた政治である。
ほんとうに感謝していなければ「ありがとう」と言えないというのは、幼児が良く陥る陥穽で、親戚のおばさんなんかに欲しくもないおもちゃを買ってこられて、ありがたく無いからありがとうが言えずその事で叱られ号泣したりする。
それも大人になれば、朝も早くから会いましたねという気持ちがなくても「おはよう」と、疲れていませんか大変ですねという気持ちがなくても「お疲れ様です」と言うことになる。ときに、当然言うべきところで逆に言わない事で内心を露呈させたりもする。つまり儀礼にしたがう事は内心の自由を保てる。ここに健全さが生まれる。


思う事と言う事が直結していなければならない、などと考えれば、そこではじめて、内心の自由さえも侵犯することが可能となる。ほんとうに済まないという思いが感じられるまで謝罪を要求したり、心底反省するまで殴り続ける事を可能にするだろう。


こんな事は当たり前の事であって、であるならば、当たり前の事ができないのは相当の理由がありそうだ。それについて考えてみた。

■実感は可能なのか

「70年前の中国人の事を本気で考えることはできない」というのは、おそらく、罪の実感のことを述べているのに違いない。
私は当初それを、戦争体験の実感、もしくは被害・加害の実感と捉え、実感なんてむしろ出来ないのが当たり前じゃないか、と思ってそう書いた。つまり少し誤読をした。
がこの誤読にも、いい訳にはならない程度の訳があって、それは、そこに「70年前の」とあるからである。時間によって薄れたり風化するのは何より「体験」であろう。


ここで体験(被害・加害)の実感について蒸し返せば、我々がそれを実感できるほうにむしろ無理がある。なぜというなら、当時の日本国内の人間にしてから、体験の実感を持っていたかどうか、帰還兵達と実感を共有したかどうか、甚だ疑わしいからである。当時の人間が感じられないものを、なぜ現代の人間が感じえようか、という訳である。
当時の人間が実感を持てたのなら、いかにして英雄と祭り上げた人間を一転「戦犯」と引き摺り下ろすことが出来ようか。シリーズ「証言記録 兵士たちの戦争」を毎度見ても毎度感じるのは、戦後多くの人が、今回初めて口を開いたという例が非常に多いことである。言い換えれば、彼らはずっと口をつぐんでこられたのだ。どうせこの実感は周りの人達には分かるまい、と。


しかし罪の実感という事になると話はちょっと違ってくるのではないか。それは、時間の経過にも左右されるだろうが、果たしてそれだけだろうか。
むしろあの戦争についていえば、直接手を下したわけではない人のほうが、罪を実感できるのではないか。というのが今回書きたかったことの中心である。

■罪の実感を阻むもの−飛躍の要請

一億総懺悔という有名な言葉があるが、当時の反省が全く口ばかりのものであったとはいくらなんでも言わない。幾ばくかの正直さが混ざらなければあそこまで大きな言葉として流通しなかっただろうし、何より私は、大陸にわたった人も、国内にいた人も等しく貶めたくはない。
しかしそこには大きな違いがあるのも事実で、何かといえば、それは「ある飛躍」があるかないかの差である。


戦地に赴いた人も、日本国内にいた人も等しく持つのは、自分達は戦争で被害にあったという気持ちである。中国人を殺した人たちだって、多くの人が持つのは、それは絶対命令であり自分達はむしろそんな事を強要された被害者である、という意識ではないか。
そして戦後、罪に目をむけることを迫られたとき、日本国内の人は被害者であること差し出してしまえば良いのだから、比較的(あくまで比較的)に容易だった。「過ちは繰返しませんから」が可能だった。罪を認めたところであくまで抽象的な加害者でしかなく、何かをされるわけではない。被害者から市民(抽象的にすぎない加害者)になるところに飛躍はない。
大陸の人々にとってはそうではない。自分自身が被害者であることを否定されると同時に、きわめて具体的な加害者であることを求められるという一足とびの飛躍がそこにはある。被害者のつもりでいたのが加害者だって?想像するにこれは驚天動地だろう。乱暴に例えれば、泥棒をせっかく捕らえたと思ったら、自分が手錠はめられて被告席にいるようかの如くなのだから。


そして恐らく、この飛躍を無茶な飛躍として、たとえば中国共産党がかつて撫順で捕虜となった日本兵達にやったような長い時間をかけた段階的な移動に替えることなく、飛躍を無理強いしてしまえばそこに心理的な抵抗が生じる。ひいては罪を実感する機会を無くす。それが表面化するとき、それを恐らく「反動」というのだろう。

■もうひとつの飛躍の無さ

飛躍がない、という事で言えば、戦後生まれの人々にはかつての戦争で被害者であったという意識がないのだから、ここにも飛躍はない。
むしろ飛躍がないという意味においては、戦地に赴いて中国人を殺した人よりも罪の意識を実感することが容易なのではないか。事実にさえしっかり向き合えば。かつて全共闘のころになって、より戦争犯罪を問う声が高まったのも、無関係ではないだろう。


纏めるならば、被害者→市民への移行(当時の日本国内)も、市民→加害者への移行(われわれ)にも飛躍はない。ただあるのは、被害者→加害者のみにおいて。つまり、終戦当時日本国内にいた人々や、戦後生まれの人々の方が、肝心の殺した人よりも罪の実感を得ることが容易であると言えなくもないのではないか。
ひいては、ただ時間のみにおいて罪の実感を測り、「70年前だからそんなに時間も経過しちゃうとその人のことなんて本気で思えない」と単純に言うのはどこか違っているのではないか。というふうに考えるが、どうか。
私はむしろこう言ってみたいくらいである。70年たったからこそ、改めて罪を実感することが出来る所に我々はいる、と。


(あるいは仮説であるがしっくりくるのは、現代において敢えてそういう事(70年前なんて云々)を言うというのは、自らもまた被害者と強く感じることにおいてであろう。そう考えるとかの発言主が洗脳洗脳言うのも納得がいく。つまりそこには飛躍があって、自分のような人間は洗脳的手段を使わないと被害者から加害者へと移行できやしないのだ、という事ではないか。)

■エロゲ規制に関連して

Apemanさんが、NaokiTakahashiさんの一種のエリーティズム?を批判しておられるが、私はむしろこの問題においても両者の了解・連帯を阻んだのは、そんなエリーティズムではなく被害者意識の存在ではないか、と思う。被害者意識が強いからこそ、罪の意識だとか踏み絵といった話に何度もループしてしまう。
といっても一方的にNaokiTakahashiさんに責があると言いたいわけではない。どうしてそうなったかを考えてみたかっただけで、どちらに責があるかなんて事を言いたいわけではない。
勝手に解釈して申し訳ないが、消費する人も含めエロゲに関わる人は、人から後ろ指を指されかねないという趣味を持っているという意味において、つねに被害者意識を抱えているのではないか。そういう被害者意識の強いもとで、もっと重大な被害者のことを考えよというのは、ただ重大な被害者のことを考えるのではなく、自らの被害者性の否定もリンクして同時に行わねばならないのだから、一足飛びの飛躍を強いているものとなってしまっているのではないか。本来自分が被害者なのに、加害者として自分をみなければならない・・・・・・。
そしてその点において、飛躍もせずに重大な被害者のことを考えることができる人達を、そこに自分達にはない容易性をみて、最後まで信頼することができなかった。Apemanさんに切実さを感じない人がいるのも恐らくそこに原因がある、と思う。そしてまた、NaokiTakahashiさんの「どうせ分かってもらえない」も、かつての帰還兵たちが口をつぐんでしまった事と私には少し重なって見える。彼らが日本国内の「反省」の容易性に背を向けた様(さま)に。


ではどうすればいいか、は無責任ながらそこまで考えて書いたわけではない。結局理(ことわり)以外にそんなに簡単に解があるとも思えず、むしろここには簡単な解がないのかもしれない、ということをただ示したかった。

うまく言えないのだけど運動について

いやその、うまく言えないことなど、公開の日記に書くなって言われればそうなのだが。


運動が先鋭化するのは、「皆同じでなければならない」という運動論の裏返しとしてあるのではないか。とか考えてみた。
一見、正反対のベクトルのように見えて、同じところから来ているのではないか。
「皆同じでなければならない」という意思がより強いからこそ、穏健的な大衆がついていけなくなったときの絶望がより強くなり、それは大衆との乖離を生む。そしてまた、ついていけなくなった者が出てしまった分、自分達がより速く・遠くなければならない、というように先鋭化する。運動の総量を保ちたいとでも言うように。


そもそも「皆同じでなければならない」という運動論自体にも問題がある。
それは、何より運動を優先し、皆が同じであることを第一義に考えがちで、「皆同じとならないのは考えが誤っているからだ」というふうに転倒しやすいから。分かりやすくいうと、革命運動が盛り上がらないのは、いま従っている革命思想が間違っているからではないか、というような。


もちろん、運動を見る視点はあって良いと思う。
実際の身体を動かす運動に例えるなら、先頭近辺を走るものがたまに振り返って後ろの様子がどうなのか見て、ああこういうコースなのかと考えつつ走っても良い。みずからの走りが後ろの者から全く消えてしまわないように調整せざるを得ない事もあるかもしれない。


何より実際の身体を動かす運動において、「皆同じでなければならない」という考え方はむしろ有害である。個人の資質を全く無視しているからだ。それぞれにとって、無理のない続けられるスピード・距離というのは、本来的に異なっている。5kmを20分で走るペースで毎日それが続くものもいれば、3日に一回1kmを30分かけて走るのが無理がない人もいる。
全員が同じペースではないからと遅い者の事ばかりを思ってペースを合わせたり、コースを変えてみたりしてもそれは運動ではなくなる。(そういう人は気質的に良い人ではありそうなのだが。)
実際の身体を動かす運動では、それぞれが、それぞれの範囲内で行うことによって、「健康増進」という目的がそれぞれにおいて達成されている。


言いたいのは、「皆それぞれが」でいいのではないか、という事。
いろいろな職業立場の人がいる。そのなかで、どこまでが無理のない範囲なのかは当然異なる。だからせっかく目的が同じなら、そのなかで距離やスピードを争って、どちらが目的に近づいているかを競ってみても仕方がないと思う。
問題は続けられるかどうか、なのではないか。何年も争っていたり、いろいろな要素が絡むのであれば特に。


むろん、”どこまでが無理のない範囲か”というのはたいてい自分で決めなければいけないから、そこにエクスキューズが紛れ込む危険性は確かにある。しかも、大いにある。
ただそれを差し引いても、自分が続けられる事が可能な無理と思えない範囲で、と思うのだが・・・・・・。


水泳を何年もずっと続けているが、週三回1時間で1キロみたいな、ある程度自分のペースみたいなのが出来てしまってはいる。不思議なのはそれでも向上心が残っていることだ。いつももっとスムースに水に乗るには、とかマイナーチェンジを試みながらやっている。
続けていると向上心も残るのだろうか?


実際の運動から連想しただけのあまり意味のないエントリだったかもしれないが、とりあえず何よりまず自分のために記しておく。

行間を甘くみないで欲しい

昨夜はある人のブログにとても感銘を受け思わず駄文を連ねてしまったのだが、そのあとある人のブログを読んで脱力してしまった。
村上春樹も、自分のスピーチに感銘を受けた人がこんな事を言っているのを知ったら頭を抱えてしまうのではないか。


確認しておきたいのは、正論原理主義の問題とは、文字どおり正論を原理としてしまう事であって、べつに正論を述べる事が問題だと言ってるわけではないという事。
また、言葉で述べられる正論を捨て、「言葉にならない正しさ」だとか「言語化され得ない概念としての正しさ」だとか、一見もっともらしいが何を示しているのか良く分からない「正しさ」に依拠せよなどという事でも、断じてない。
正しさをべつの正しさに置き換えたところで、正しさを原理としてしまうのであれば、そこでは何も変わっていないのだから。
正しさを語って容易に説得できないからといって、正しさを「見せた」ところで容易に同じように出来ない人だっているだろう。そこで「言葉にならない正しさ」を原理としてしまえば、どうせ言っても分からないから殴って分からせるとか、そういう事態になるのだろうか。それもまた随分と怖いことである。


このブログに見られるような言論こそ、危惧すべき実感優先主義への退行とも言ってよいかもしれない。人間は正論にすがってしまう弱いものなのです、という人間の弱さという実感(その事への共感)への退行であり、そして挙句の果ては、非言語的正しさなどというもの極めて曖昧なものへの退行。
弱さへの退行によって正論を無邪気に口にする者を免罪し、また、自らは非言語への退行により正しさを確保しているのだから、暴走しようが何しようが正論を述べる場を無責任にただ眺めていれば良い。全く良く出来た、じつに都合の良い構図である。
また、この構図の中には主体がどこにもない。なぜなら、いちど「言葉にならない正しさ」などといってしまえば、彼が間違うことなど絶対にないのだから。間違う事のないものがいったい主体足りえるだろうか。自分も間違うし、相手も間違うという場所に倫理が生まれるのではないか。倫理というのは、そういう主体(が主体を認めること)と共にしかありえないと思うのだが、非言語への退行によって、言語をもって主体同士が向き合う場から己を消し去るような者が「倫理」を口にできるというのも、全く不思議なことだと思う。


上官の命令で捕虜を試し切りした兵隊だって、ガス室ユダヤ人女性を連れて行った兵隊だって、弱い事には変わりはない。あるいはイスラエルの兵隊や、ユダヤ教徒だって。


村上春樹だって、自分を言葉で攻撃した者たちの弱さなど当然分かっているだろう。だからこそ、イスラエルに行ったのだから。
そして、かといって弱さをもって免罪することができない事も分かっている。なぜならそれこそが彼が書く理由なのだから。スピーチは素直に読めばいい。
攻撃した者の弱さをいってしまえば、攻撃されたものの弱さはどこへもっていけばいいのか。それらを同じ「弱さ」という言葉で表現してしまえば、攻撃されたものの弱さはみえなくなってしまう。言い換えれば、相手も弱いのだから我慢しなさい、黙りなさいとなる。こんな強者の論理に依拠できるのなら人は小説など絶対書かないし、読まないだろう。(そういえば、このブログ主も小説を読まない人らしいが、さもありなん)


更にいえば、「言葉にならない正しさ」なんてものも小説家は全く信じていないだろう。なぜなら、彼は書いたからである。「言葉にならない正しさ」などというものを信じながら言葉で何事かを表現しようとするという事が、どうして可能だと考えたりするのか、私にはさっぱり分からない。普通に考えれば、「言葉にならない正しさ」なんて事を信じていないからこそ、言葉はもっと色々伝えられると信じるからこそ、書くのに違いないだろう。


行のない行間なんてものもない。行を読んだことのないものが行間など分かる筈がない。全くない。もしそんな事が可能なら、小説が小説である理由がなくなってしまうから。もしそんな事が可能なら、小説家が何百も何千も行を綴らねばならない理由がまったくなくなってしまう。
そして行を読んでいないのに行間を分かるという妄想は、行間=言葉にならない正しさ、という便宜的な短絡によって可能となるのだろう。「言葉にならない正しさ」と都合よく解釈すれば誰でも分かった気になれるのだろうが、行間はあくまで行の間の空白であって、誰もが自由に妄想できるような真っ白なページの空白ではない。


さきほど強者の論理に依拠できるのなら人は小説など書かないといったが、一方で、単純な弱者の論理に依拠するのも小説の方法論ではないのだろう。恐らく村上春樹が他の社会科学ではなく小説を選んだのは、そういう理由ではないか。
社会科学であればそれはより正論原理主義に陥る危険性が高い。かつて正論原理主義的なものにたいして物をうまく言えなかった人達の側に立ったとしても、立場を入れ替えただけで、そこで自分が正論原理主義のようなものになることは避けたい。ゆえに、正論をハイこれと呈示する社会科学的なものではなく、遥か彼方から迂回して近づいたり離れたり、押したり引いたり、手を変え品を変え、ときには全く予想もしないところから忍び込ませるようにして人に届かせる小説を選んだ。


そういう村上春樹が「正論原理主義」という言葉で誰かを強く非難したとき、それ自体が「正論原理主義」として働いてしまうのではないか。彼は何より小説で迂回して非難すべきではなかったのか、という感想もあるだろう。
がしかしそんなものはもし羞恥心があるのならば、感想にとどめておくべきだと思う。なぜなら、「ネット上の匿名」という主体無き言論とそうでないものとの非対称性がまったく考えられていないからだ。


かつての正論原理主義が自分の存立基盤を切り捨てて正論に走ったが故にいつかは欺瞞に直面せざるを得なかった所に問題があるとすれば、ネットの世界では、直面せざるを得ないことがない点においてより重大な問題があるのだと思う。
学生運動の頃は親から仕送りだのがあったり電話や手紙が届いたりで、欺瞞に直面させられる受動的である契機があった。そこで例えば敏感な人は立ち止まりフォークソングに耳を傾けたりといった事があっただろう。ネットでは直面させられるという事が殆どない。匿名であれば。
ほぼそれは自らの自覚に頼らざるをえない。ラップトップを閉じ電源を落としてしまえば何も直面しなくて済む。能動的に済む。
イスラエル批判」をさんざん書き込んでラップトップを閉じ、そのあと彼女とデートして、マックのポテトをつまみながらピクサーのアニメを見て笑い、スターバックスでお茶して帰ることも可能で、そうして家に帰ってきたからといって、パソコンに咎められるという事はない。
そして、そうした楽しいことをしている間に「イスラエル批判」はネット上を一人歩きをし、作家を戸惑わせているかもしれない。


むろんここまで欺瞞的な人なんて実際には殆どいないだろうが、実際にはいないとしても、そういう事態が可能であることには、常に自覚的でありたいと思う。


※またここでピクサーのアニメを見る事が悪いと「直ちに」決断すべき、という事ではない。それもまた切り捨て、日本に暮らしている限り、多くの人にとって存立基盤の切り捨てでしかないのだから。多くの人にとって存立基盤の切捨てであるという事は、やがて原理主義となる危険性が高いという事であり、学生運動の愚かさに帰る事になってしまう。


※このエントリは過去に書いたこととの一貫性を毀損しているかもしれない事は自覚している。

「正論主義」ではありたい

(以下ただのつぶやきです。自分自身にとって以外はそれほど意味がないかもしれませんので一応)


未整理のまま。


さいきん、村上春樹のスピーチ以後、正論原理主義批判が多く見られるようになったが、一種の自浄作用としてアリだと思う。
けれどもそれが行き過ぎて、実感優先主義、生活優先主義にまで退行しないように、そして、「正論原理主義」からは距離をとっても「正論主義」ではありたいと思う。
思えばこのブログ、当初は、「日本人としての実感」に則した靖国参拝への疑義がきっかけだったし。
それにはてな界隈の外側では相変わらず、「当時の実感」に則した、大東亜戦争仕方がなかった論、が幅を利かせている事も事実なのだから。


「政治的に中立なんてありえない」という批判が正当であることと、自らにあるいは他者が中立性を仮託したプラグマティックな立場を認めることは両立するのではないか、とも考えたりする。


いやいや戦争に協力しあれは仕方がなかったんですと戦後に答えた文学者たちと、徹底して傍観者であった永井荷風とのあり方の違いについて最近よく考える。


「現実と理想」ということを私のなかで翻訳するなら、目の前の一番大事に思う人を裏切るような思想や今日という日を大事にしない思想にはいつかきっと裏切られるし、いっぽうで、人を一切傷つける事なしに何かをなそうと思っても何もできやしないだろう、となる。


正義を言うということは、今更当たり前の事を言うことなのだから本来的に気恥ずかしい、大声ではなく小声で言うようなものではないか。
そしてまた、正義を誰かに向かって言うときは、今更当たり前の事を突きつけることなのだから、相手の恥ずかしさに対する配慮も必要だろう。その誰かが、大声で正義を言っているような時は、仕方のないというふうになってしまうとしても、それは仕方ないといった行為の形をとることになるのだろう。つまりは、自分のやりかたを常に振り返って見るような。


水俣に関するエントリもそうだったが、swan_slabさんにはいつも省みるきっかけを頂いて感謝している。


参考:http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20090314#p1

自由であり且つ不自由という事

珍しく言及されてしまったので、NaokiTakahashiさんのその前後のエントリも含めて読んだ感想を書こうと思う。もしかしたら雲をつかむような事を書いてしまうかもしれないが、今のところそのようにしか書けないので、もし読まれる事があればなんとかご容赦いただきたいと思う。


まず私がmojimojiさんの一連のエントリに対してなぜ易々とこれを許容できるかといえば、あそこで文学と政治が切り離されて文学および文学者が不当に貶められている、とは全く思わないからです。
mojimojiさんは違うとおっしゃるかもしれないけれども、彼の言葉も、私からすればまぎれもなく文学の言葉です。たとえば「パレスチナに用がある」なんて表現に文学を感じないでいる事が私にはできません。あそこで起こっていることは文学対文学であり、文学にとってはそのようなものは当然ありうる、特別嬉しいことでも悲しいことでもありません。
そもそも私には、文学と政治を切り離して捉えるような考え方がうまく出来ません。少なくとも意識的には。なぜなら、それらはその出自から明らかなように本来的に不可分なものだから、と考えるからです。だから、どちらが優位に立つか云々の議論となると尚更ついていけません。片方が別の方に対して優位に立ったり劣位に立ったりするような関係とはとても思えないのです。
これを言い換えれば、あらゆる政治の言葉はそれは文学であり、あらゆる(少なくとも近代の)文学は政治性を帯びている、となります。ときに、いやこの国に暮らしているとしばしば、文学から遠いなという政治の言葉に出会いますが、それは文学ではないという事ではなくて単に文学として洗練されていないだけであり、また、政治性のないような文学作品も多くありますが、たんに政治性が隠蔽されているに過ぎないのではないか。いや、政治なんて一切関係ないよ、とおっしゃる表現者の方もいるかもしれませんが、それはその通りでしょうとしか言いようがなく、むろん、隠蔽というのは自分の意識に対しても行われるものでしょう。


というような事は、文学賞を授かるような作家であれば当然持っているような、比較的オーソドックスな考え方ではないか、と私は思っています。もっといえば、私が作家の「良心」なるものを信ずるとすれば、ここにこそある、と言ってみたい所です。mojimojiさんのような「圧力」も、当然ありうる事態と受け止めるだけの理性と度量を村上春樹が持っているだろう事を信じる事、にこそ。(もちろん作家のそれは、相手が理性にとどまっている限りにおいては、ですが。で、相手が理性にとどまっている限り、たとえば大江健三郎は、茶番とされるような裁判にもやってくるのです。)
むしろ村上春樹がこの程度の「圧力」で動揺してしまうかもしれないなどと思う方が、彼の良心への信頼としてどうなのだろうか、とすら考えたりもしますが、色々なかたちの信頼がありうるでしょうから、あくまでそう思うだけならば、特段どうこう言うものでもないのかもしれません。


文学賞を授かるような作家であれば当然持っているような」などと厚かましくも傲慢な書き方をしましたが、たとえば、第二次大戦のときにこの国の文学者の間で起こったことなどは当然知っているのではないか、という期待から、そう書きました。
ある英米文学の研究者は、同時代の英米の自由な文学にさんざん親しんでおきながら、1941年の出来事に感銘を受け、日本の使命のためなら英語を捨て去る決心すら、誇りを持って宣言したりしています。プロレタリア文学者や、政治と文学が切り離せると考える者からすれば、これは結局政治の方が文学に勝ってしまうのだよ、と言いたくなるでしょうが、私からすればそこで起こっているのは、文学対文学に過ぎません。
またこの頃、政治から遠い場所で自由に美を愛でていた作家もまた、熱心で激烈な戦争賛美者となっています。(軍部が強いたからだ論もあるでしょうが、一部の例外を除いてそれは成立しないと思います。)高村光太郎佐藤春夫北原白秋斉藤茂吉サトウハチロー・・・聞いた事がある名前ばかりです。もちろん聞いた事のない戦争協力作家も沢山沢山いたでしょうが、ここで言いたいのは、なぜ私たちが彼らの名前を聞いたことがあるか、という事。ぶっちゃけ、戦後の教科書などにもずいぶん彼らの作品は収録されているからです。なぜというなら、彼らの優れた作品は、ある意味普遍的に優れていてまた美しいとされていて、実際そうだからです。


文学(あくまで近代文学の話ですが以下略)が自由で自律的で「あるべきか」という議論は、やや退屈に思います。なぜならば、文学というのは、本来的に自由で自律的でしかありえないからです。江戸期の勧善懲悪にたいして自然主義文学が優位に立ったときそれは成立したのですから。国家、政治とともに。
何ものからも切り離されたいち個人を基礎として近代国家は作られ、何ものからも切り離された一個人という認識は何より文学がもたらしたものです。
というのが私の認識です。自分のことを、自由で自律的で、したがって普遍的なものを生み出しうると考える事が出来るのも、近代文学のお陰。というか、我々が使用している言語は、そのように自らのことを思わせるものとして成立している。
ここで逃れられないというならばむしろ、自由で自律的であることから逃れられない、と言うべきなのかもしれません。


がしかし、あるものから逃れられないとすれば、それは真に自由と言えるのだろうか、というのが、例えば先に挙げた文学者の戦争協力問題で問われている事です。完全に自由で、自律していて、普遍的な美に奉仕していると思われていた者が、その自由意識のもと、まぎれもない国家意志の体現者となってしまう、ということ。ここには偽りなどなく、戦争に協力するのが全く自然な事と思われたのですが、ナチス統治が終わった後のドイツ人の言葉で、なぜ協力したのかよく分からない夢でも見ていたかのようだ、という言葉を思い出します。言うまでもなく夢の中では何もかもが自然です。
しかし多くの文学者が戦争協力者になったことは、その出自を辿れば、そう不思議ではないのかもしれません。なにより国家を形作る言葉として文学は生まれたのですから、逃れようがない、という。
今日の優れた文学とされるものが、ときに、文学を読みなれていない者にとっては非常にとっつきにくいものとなっているのは、これらの事に対する批判があるからだ、と私は考えています。自由である自分の内から湧き出てくるものを自然に書き付けていく事への。そして普遍への。本来的に自由であり、また自由でなければ書けないものの、その自由さがある不自由さのもとにあるとすれば、その今ある自由は、自由を疑うこと、自由な個人である作家が、自由な個人である読者に、自然に分かりやすく届いてしまうことへの批判として使わねばならないのではないか。自分が何ものからも自由であると考える事ができるような言語の解体へと。これでは、とっつきにくくもなりますが仕方のない事です。


余談ですが、人は階級意識から逃れられないとするプロレタリア文学者は戦争協力者とならずにすみましたが、けっして威張れるものではないでしょう。戦時中の文学は奉仕する先が共産党ではなく国家であるというだけで、多くの文学者が戦争協力者になったことは、プロレタリア文学の敗北と捉えても良いのではないか、と考えます。


長くなりましたが、文学というものがこのようなものであると私は思いますので、文学者の政治的な言説など話半分にしておきなさい、というNaokiTakahashiさんの言葉に対しては、少し共感しつつも、少しでしかありません。話半分にしろ、と言われて「よしそうしよう」とできれば何の苦労もないからです。これは、近代国家は幻想だよ、想像の共同体だよといくら口を酸っぱくしたところで、容易に国家がなくならないであろう事とパラレルです。現代作家の多くは、まさしく簡単にはそうできないという苦労をしているのだ、と私は思います。
政治と文学を切り離して、いやこれは原理的にできませんから、政治家と文学者を切り離して、政治に関しては政治家の事に耳を傾けようと言った所で、多くの人はおそらく文学者の言うことの方を向くでしょう。それが、この国の約70年前に起こったことです。理性的に我彼の国力を説き和戦を模索するようなような役人は「奸臣」と切り捨て、「徹底抗戦」「玉粋」という単純で美しい言葉に皆なびいたのです。(これはをまたつい最近のアメリカでも起こったことです。オバマ氏の演説が、その政策に比べいかに文学的に洗練されているか。)
結局かように文学−われわれが自然に共感してしまう言葉−から政治が逃れられないとすれば、文学者をナイーブなものとして政治から切り離す事は尚更危険と私には思われます。その場合において、文学者のナイーブな、言い換えれば素人的な無責任な言葉が専門家の言葉を駆逐しかねないからです。
もっとも昨今は70年前と異なり文学者がまったく力を失いつつあるので、上記は杞憂かもしれませんが、何ものかが文学者にとって代わっているだけかもしれません。いま何が政治において力を持つかについてはっきりしないのならば、何かを超越した場所に切り離すのではなく、すべてを政治&文学の言葉として捉えた方が良いのではないか。
高橋源一郎という作家がいて、少女漫画や競馬新聞まで批評し、あらゆる所に文学の臭いを見出そうとしていましたが、そのことを今思い出しました。